第八話 指切り 三
斎郎が槐に何かを告げる時には、もう全てを決めてしまっていた。一人で抱え込み、槐を
だから、槐の心はいつも置いてきぼりだった。
「斎郎、私、返さないといけないものがあるの」
じんわりと。熱くなる斎郎の胸に花びらの様柔らかな声が、ふわりと舞い降りた。それは、かつての日々に当然の様に感じていた、斎郎の心を撫で癒した声色に近かったかもしれない。
何を問う事もなく、斎郎は格子に近づいた。格子に手を通せば、槐から容易に何かを受け取る事はできるだろう。しかし、槐は真っ直ぐ斎郎を見て言った。
「できれば、きちんと返したいから」
だから、格子の内側へと。斎郎は誘われるままに進むかを悩んだ。悩んだが、槐が望むのであればと、あっさりと鍵を手にして格子の向こう側へと辿り着いていた。
槐を恐れてしまった
そこへ、槐が袖から取り出したのは――懐かしき思い出を更に色づかせるものだった。
「これを、」
槐が手にしたのは、藤の絵が彫られた
「ああ、懐かしいな……」
斎郎は迷いなく受け取った。磨き上げられた艶は消えかけているのか、ところどころ感触はざらりと指を掠める。それでも、殆ど傷もないままの姿。けれども、確かに過ぎ去った時間が斎郎の目にも映る。櫛を持つ、自身の老いが始まった手を見れば殊更に。
懐かしさの虜にでもなってしまったように、斎郎は櫛に食い入っていたが、ふと目線を上げると槐の一際に真剣な眼差しが視界に入った。何かある。恐らく、予兆はずっとあったのだ。確信を胸に抱きながらも、斎郎に焦りはなかった。
「槐、何かあったんだな。中にいた奴は……」
奴と言った言葉の行方を探すように、槐は暫し考え込んで目線を落とす。しかし、何か思い至ったようで、またも目線は斎郎へと戻った。
「
「……どこへ?」
「判らない。でもいずれ、ここに戻って来る」
槐の眼差しは、
「そうか……お前を迎えに来るのか」
斎郎は冷静だった。何一つ守れなかった約束に終わりが来た。そう考えると、今までの悩みがすとんと胸の内から滑り落ちて、身が軽くなった気がしたのだ。
「うん、だから……斎郎にはきちんとお別れを言っておきたかったの」
「いつ来る」
「雨が降ったら」
「雨……」
もう直に、雨季がやってくる。雨などいくらでも降るだろう。
――水分神の事を言っているのか? いや、
水分神は、水の神。しかし、雨を降らせるような神ではない。では、雨とは何の意味がるのだろうか。そんな事を考えていると、ふと斎郎は違和感に気づいた。槐の胸元から、妙な気配を感じたのだ。
「槐、何を持ってる?」
言われて槐が、胸元へとそっと手を当てて「大事な御守り」と告げる。
槐の持ち物は全て、斎郎が贈ったものばかりだ。しかし、その殆どが枯れたり、使えなくなったり……櫛は返したばかり。だが、そのどれもになかった筈の神気が僅かに槐から感じるのだ。斎郎が槐の神気を感じる事ができるのは、槐が傷を負い、神気が流れ落ちただけ。だから、槐が御守りと称したそれが、中にいた何かの一部だとすれば――
「それを見せてくれないだろうか」
槐に躊躇いはなかった。御守りと称したそれを胸元から取り出すと、掌の上に載せて、何の気無しに斎郎へと差し出してみせる。
――黒い鱗……だが……
斎郎は目を丸くするばかりだった。黒い鱗。魚ではない事は一目瞭然だった。魚の鱗のように薄くは無い。しかし、蛇や蜥蜴の鱗と形こそ似ているが、それらよりも余程光沢がある。
「これは……」
斎郎は、過去に見た覚えがある気がした。そう、幼い頃は何度と繰り返し開いた
「槐、雨……と言ったな」
槐は一つ頷く。
「……ならば、俺もできる事をしないといけないな」
槐は小首を傾げて、斎郎を見やった。
「斎郎、何をするの?」
槐は鱗を胸に仕舞いながらも、わずかな不安からか顔つきが神妙になる。だが、斎郎は槐の不安を拭い去る様に、ふつと笑ってみせた。
「昔、果たせなかった約束の代わりを」
そう言って、斎郎は小指を差し出した。
「鱗の御仁がお前を迎えに来るまで、お前を守ると誓おう」
幼い頃に一度だけ。母を探すと約束したその小指。それは、決して果たされない約束だった。互いに幼く、無知でもあった。しかし此度は違う。二人は成熟し、二人の間にもう格子も無い。
槐はそっと、斎郎の小指に自身のそれを絡ませ、そして一つ呟いた。
「ありがとう」
◆◇◆◇◆
「親父、こんな所にいたのかよ」
斎郎が開かずの間から出ると、史郎がひょこりと顔を出した。朝食の支度が整っても顔を出さない父――斎郎を探していた様で、まだ朝食にありつけていない顔が僅かに不満を漏らす。
「ああ、悪かった」
斎郎が軽い調子で返したからか、今し方斎郎が閉じたばかりの開かずの間の扉を史郎は見やる。
「……起きたのか?」
何がとは問わないが、槐の事だろう。斎郎はすかさず「ああ」とだけ返事して、そのまま朝食が用意されている部屋へと足を向ければ、腹を空かせたままの史郎も斎郎の背を追った。
「じゃあ、御役目は再会するんだな」
史郎は何気なく。それこそ、慣れた日常が戻るかの様に、一つ欠伸をかきながら言った。ああ、今日からだ。そんな返事を、以前であればしただろうか。斎郎は思い立ったかの様に斎郎がぴたりと足を止めた。
「親父?」
訝しむ史郎へと、斎郎は振り返る。
「いや、もう血は採らない」
「……は? 何言ってんだよ。今年は無事終わっても、来年の分は――」
「来年は無い。毒酒造りはもう終わりだ」
当然だが、史郎は想像だにしていなかったのだろう。ポカンと口を開けたまま、言葉の続きは出てこない。
斎郎も、自分がこれほどすんなりと言葉に出来るとは思ってもみなかった。若かりし頃よりも、余程強く。秘めたる決意が斎郎の背を押すのか、それとも無意識に神なる存在を恐れているのか。
「皆にも伝えねばならないが――その前に、お前に話しておくべき事がある」
そこで漸く、史郎は固まっていた顔がゆるゆると動き出して「なんだよ」と無愛想に言う。まだ余裕のある態度ではあったが、次に吐いた斎郎の言葉でそれも容易に崩れてしまった。
「お前の母親の事だ」
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