第八話 指切り 三

 斎郎が槐に何かを告げる時には、もう全てを決めてしまっていた。一人で抱え込み、槐をおもんばかる余裕など当時の斎郎には無かったのだ。


 だから、槐の心はいつも置いてきぼりだった。


「斎郎、私、返さないといけないものがあるの」


 じんわりと。熱くなる斎郎の胸に花びらの様柔らかな声が、ふわりと舞い降りた。それは、かつての日々に当然の様に感じていた、斎郎の心を撫で癒した声色に近かったかもしれない。

 何を問う事もなく、斎郎は格子に近づいた。格子に手を通せば、槐から容易に何かを受け取る事はできるだろう。しかし、槐は真っ直ぐ斎郎を見て言った。


「できれば、きちんと返したいから」


 だから、格子の内側へと。斎郎は誘われるままに進むかを悩んだ。悩んだが、槐が望むのであればと、あっさりと鍵を手にして格子の向こう側へと辿り着いていた。

 槐を恐れてしまったから、二人で向かい合って、もう何を語らう事も無いだろうと斎郎は諦めていた。互いに姿勢を正し、今もよそよそしさ抜けない。昔に比べれば、距離もある。それでも、斎郎の胸には懐かしさが込み上げていた。

 そこへ、槐が袖から取り出したのは――懐かしき思い出を更に色づかせるものだった。


「これを、」


 槐が手にしたのは、藤の絵が彫られた黄楊つげの飾り櫛。二十年という年季が入った黄楊は昔に比べると色味が濃い。けれども、確かに藤の模様は昔、斎郎が渡した櫛のそれと同じ。


「ああ、懐かしいな……」


 斎郎は迷いなく受け取った。磨き上げられた艶は消えかけているのか、ところどころ感触はざらりと指を掠める。それでも、殆ど傷もないままの姿。けれども、確かに過ぎ去った時間が斎郎の目にも映る。櫛を持つ、自身の老いが始まった手を見れば殊更に。

 懐かしさの虜にでもなってしまったように、斎郎は櫛に食い入っていたが、ふと目線を上げると槐の一際に真剣な眼差しが視界に入った。何かある。恐らく、予兆はずっとあったのだ。確信を胸に抱きながらも、斎郎に焦りはなかった。


「槐、何かあったんだな。中にいた奴は……」


 奴と言った言葉の行方を探すように、槐は暫し考え込んで目線を落とす。しかし、何か思い至ったようで、またも目線は斎郎へと戻った。

 

は、出て行ったの」

「……どこへ?」

「判らない。でもいずれ、ここに戻って来る」

 

 槐の眼差しは、と称した存在を待ち侘びていた。かつて、斎郎が槐に求めた眼差しそれにも、似ていたかもしれない。しかしそれでいて、迷いなど、どこにも見当たらなかった。


「そうか……お前を迎えに来るのか」


 斎郎は冷静だった。何一つ守れなかった約束に終わりが来た。そう考えると、今までの悩みがすとんと胸の内から滑り落ちて、身が軽くなった気がしたのだ。

 

「うん、だから……斎郎にはきちんとお別れを言っておきたかったの」

「いつ来る」

「雨が降ったら」

「雨……」


 もう直に、雨季がやってくる。雨などいくらでも降るだろう。


 ――水分神の事を言っているのか? いや、は 水分神の加護の話をしていた。また別の存在のはず……


 水分神は、水の神。しかし、雨を降らせるような神ではない。では、雨とは何の意味がるのだろうか。そんな事を考えていると、ふと斎郎は違和感に気づいた。槐の胸元から、妙な気配を感じたのだ。


「槐、何を持ってる?」


 言われて槐が、胸元へとそっと手を当てて「大事な御守り」と告げる。


 槐の持ち物は全て、斎郎が贈ったものばかりだ。しかし、その殆どが枯れたり、使えなくなったり……櫛は返したばかり。だが、そのどれもになかった筈の神気が僅かに槐から感じるのだ。斎郎が槐の神気を感じる事ができるのは、槐が傷を負い、神気が流れ落ちただけ。だから、槐が御守りと称したそれが、中にいた何かの一部だとすれば――


「それを見せてくれないだろうか」


 槐に躊躇いはなかった。御守りと称したそれを胸元から取り出すと、掌の上に載せて、何の気無しに斎郎へと差し出してみせる。


 ――黒い鱗……だが……


 斎郎は目を丸くするばかりだった。黒い鱗。魚ではない事は一目瞭然だった。魚の鱗のように薄くは無い。しかし、蛇や蜥蜴の鱗と形こそ似ているが、それらよりも余程光沢がある。


「これは……」


 斎郎は、過去に見た覚えがある気がした。そう、幼い頃は何度と繰り返し開いた図譜ずふ。その中に、似たような存在が――――


「槐、雨……と言ったな」


 槐は一つ頷く。


「……ならば、俺もできる事をしないといけないな」


 槐は小首を傾げて、斎郎を見やった。

 

「斎郎、何をするの?」


 槐は鱗を胸に仕舞いながらも、わずかな不安からか顔つきが神妙になる。だが、斎郎は槐の不安を拭い去る様に、ふつと笑ってみせた。

 

「昔、果たせなかった約束の代わりを」


 そう言って、斎郎は小指を差し出した。


「鱗の御仁がお前を迎えに来るまで、お前を守ると誓おう」


 幼い頃に一度だけ。母を探すと約束したその小指。それは、決して果たされない約束だった。互いに幼く、無知でもあった。しかし此度は違う。二人は成熟し、二人の間にもう格子も無い。

 槐はそっと、斎郎の小指に自身のそれを絡ませ、そして一つ呟いた。


「ありがとう」



 ◆◇◆◇◆



「親父、こんな所にいたのかよ」


 斎郎が開かずの間から出ると、史郎がひょこりと顔を出した。朝食の支度が整っても顔を出さない父――斎郎を探していた様で、まだ朝食にありつけていない顔が僅かに不満を漏らす。


「ああ、悪かった」


 斎郎が軽い調子で返したからか、今し方斎郎が閉じたばかりの開かずの間の扉を史郎は見やる。

 

「……起きたのか?」


 何がとは問わないが、槐の事だろう。斎郎はすかさず「ああ」とだけ返事して、そのまま朝食が用意されている部屋へと足を向ければ、腹を空かせたままの史郎も斎郎の背を追った。


「じゃあ、御役目は再会するんだな」


 史郎は何気なく。それこそ、慣れた日常が戻るかの様に、一つ欠伸をかきながら言った。ああ、今日からだ。そんな返事を、以前であればしただろうか。斎郎は思い立ったかの様に斎郎がぴたりと足を止めた。


「親父?」


 訝しむ史郎へと、斎郎は振り返る。


「いや、もう血は採らない」

「……は? 何言ってんだよ。今年は無事終わっても、来年の分は――」

「来年は無い。毒酒造りはもう終わりだ」


 当然だが、史郎は想像だにしていなかったのだろう。ポカンと口を開けたまま、言葉の続きは出てこない。

 斎郎も、自分がこれほどすんなりと言葉に出来るとは思ってもみなかった。若かりし頃よりも、余程強く。秘めたる決意が斎郎の背を押すのか、それとも無意識に神なる存在を恐れているのか。


「皆にも伝えねばならないが――その前に、お前に話しておくべき事がある」


 そこで漸く、史郎は固まっていた顔がゆるゆると動き出して「なんだよ」と無愛想に言う。まだ余裕のある態度ではあったが、次に吐いた斎郎の言葉でそれも容易に崩れてしまった。


「お前の母親の事だ」

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