第九話 終わりの時
その日の朝一番だった。豪快な――何かが大きくぶつかる音が、間広い杜氏の家で轟いた。あまりにも、激しく打つかったものだから、その家の一室で療養していた芳雀の部屋まで届いたほど。それから間もなくして、芳雀の元へと顔を見せた斎郎の左頬は――まあ、見事に腫れ上がっていた。
「おい、その顔どうしたよ」
布団の上で、上体だけを起こして暇つぶしの図譜を眺めていた芳雀だったが、左頬を摩りながら現れた斎郎に目を丸くした。――したが、顔は今にも吹き出すのを堪えて薄ら笑っている。
「息子に殴られた」
心配よりも未だ笑いを堪える芳雀に対して、斎郎は芳雀の布団の横に胡座をかきながらも淡々と返した。実際、言葉通り斎郎は史郎に殴られたばかりだった。
「理由は?」
「ユキナの話だ」
「一発で済んだのか」
「
ああ痛いと斎郎はぼやくが、特段に史郎に対して何を思う事もない様子で左頬を摩る。息子に殴られたと言いながらも、そこに嫌悪や悲哀は見えてはこなかった。
「お前、何あったか?」
「腹を括ったんだ」
芳雀は興味を引かれたように笑みを浮かべて、「へえ」と軽口に返す。
「芳雀、お前――藤の夢に行ったんだろう? 中にいたものを見たか?」
「見た」
芳雀は間髪入れずに返した。
「安心しろよ。俺の中のもんはもう抜けたから」
「それは疑っていない。それに、中にいた奴とは話をしたから、悪意で動いていたわけではないのは知っている。だが、それが
「あれは人の形をしちゃいたが、神様とやらだ。しかも山神……
「……そうか」
「まだ中にいるんだろ?」
「いや、抜けた」
斎郎は、会話の流れであっさりと溢したが、芳雀は斎郎ほど落ち着いてはいられなかった。
「いつだ! どうやって⁉︎」
「どうやってかは知れん。だが、槐が言うには……いずれ迎えに来ると」
「何だそりゃ」
「そのままの意味だ――なあ、芳雀。手伝って欲しい事がある」
「おいおい、病人に頼らないといけない話ってのは随分な話だな」
「実際、面倒な事にはなると考えている。毒酒造りを辞めさせる話だからな」
腹を括ったという言葉通り、斎郎は何を言おうとも、言葉の節々には揺らぎは見えなかった。芳雀の目にも、斎郎は未だ見たことがない――それこそ、別人かと思うほどにどっしりと構える姿。寧ろ今度は斎郎が身体を乗っ取られているのではと疑いそうでもあった。だが、どこをどう見ても、姿も
「へえ、どうするよ」
「お前は、反対しないのか」
「……まあ、里を想うと毒手があれば潤うって意見には賛成だった。俺だって此処が故郷だしな、簡単に失いたくは無い。だが、今回の件は――時が来たって、やつなんだろうな」
斎郎は目を伏せる。しかし、同意を示す様に静かに頷いた。
「
「……それで、俺は何を手伝う」
「皆を説得する。蔵人だけじゃない。里人もだ。神の加護下に生きてきたのは俺たちだけじゃ無い。みんなに説明をして、毒酒は造れないと。これからは酒造だけで生きていくと」
「四ツ家はどうする」
「もちろん四ツ家もだ」
はっきりと言い切った斎郎の顔は、何を述べようが、もう腹は決まっているのか揺らがない。それを見てか、ニヤつくばかりだった芳雀も背筋を伸ばした。
「それで、いつやる」
「直ぐにでも」
◆◇◆◇◆
『お前の母――ユキナが死んだのは、俺が原因だ』
史郎はずっと、母の死を病だと聞かされてきた。史郎を産んで間も無く、流行病で亡くなったのだと。だからとて、寂しいと思うことは無かった。幼い頃は祖母が面倒を見てくれて、それでいて父も仕事に打ち込みながらも、史郎に優しく愛情を注いでくれていたからだ。
けれども時折、祖母は心を患った様に彼方を見つめる時があった。史郎を見て、申し訳なさそうに泣く事もあった。ごめんなさいと詫びて、しかし意味を教えてくれる事は無かった。
それが今日。父によって語られた。
今、史郎の手には鍵がある。いつもは、父が大事に皮紐で繋いで首から下げている開かず間の鍵だ。殴ったついでに奪い取った訳では無い。ただ納得がしたいからと、父に譲歩させた結果だ。だが、何をどう納得するかなど、史郎にも決めかねて、今、史郎は開かずの間の前で逡巡を繰り返すばかりだった。
母が死んだのは槐の呪詛によるものだと聞かされはしたが、だからと言って、史郎に突如とした槐に対する深い恨みが湧いたかといえば、そうでもない。ただ、何ともいえない蟠りが、腹の中でぐるぐると巡って、落ち着かないのだ。そう、母と呼べる人の死を整理したかった、とも言えるかもしれない。
そんな答えが、漸く史郎の足を動かした。
◇
史郎は格子を前にして、再度自身の胸に恨みはあるかと問いかける。しかし、答えは――無に等しかった。父に置き換えたなら、確かに恨みも湧くかもしれないが、母と言うものを知らずに生きてきた史郎にとっては難問だったのだ。だから、同じ境遇である筈の格子の向こうで姿勢良く座る女に一つ問う事にした。
「なあ。あんたはさ、どうして人間を恨まなかったんだ?」
それまで、史郎は槐と話をした事が無かった。それまで何年も――何度と顔を合わせてきた筈なのに、だ。
史郎は、躊躇した日ですら、槐に痛みを問うことはなかった。痛みに耐える姿を目にしながらも、申し訳ないとは思っても、労る事はなかった。それが、当然の事なのだと――それが、日常になるのだと言い聞かせてきた結果だ。その結果、史郎は槐に刃を当てることに慣れきって、もう労りの心を持つ気も失せていた。もしもそんな心で日々繰り返していたのなら、きっと折れていたのは史郎の方だ。
だが今、史郎は母を殺されたと言う事実と、槐を痛めつけてきた日々を比べて――殺された母自身ならともかく、史郎が槐に恨みをぶつけるのは矢張り御門違いにも思えた。史郎もまた、槐の心を殺し続けてきたのだ。
そう槐もまた、心がある。
「恨まないわ」
不躾な質問ではあった。史郎から何かを問いかけるのは初めてだったと言うのに、それも構わず槐は迷いなく答えた。
「何故」
「母は、人を憎んだけれど、それでもこの里が好きだと言った。この里を自身の呪詛で埋め尽くさない為に。私を、呪詛で染めてしまわないように、誰かを恨みはしなかった。だから、私も誰も恨まないわ」
槐の瞳は真っ直ぐに史郎を見つめた。史郎が、自身が呪詛を浴びせた女の子供だと気がついているのか、いないのか。そればかりは、史郎にも掴めない。けれども、史郎は小さく息を吐いて、「そうか」と呟いた顔は凪いでいた。
第四幕 約束 了
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