第七話 指切り 二

「お母さんはね、この里がずっと好きだったよ」


 槐が続けた言葉に、斎郎は固まった。


「この山が好きで、この里が好きで、石清水のお酒が好きで、この里に住む人達が好きだったって。お父さんの事も、大好きだったって」


 過去に、斎郎の父は槐の母を毒花のように語った。

 まるで手強い妖でも相手取っていたような。恐れ続けたからこそ、閉じ込めていたような。今も、皆が槐を恐れている。毒は肉を蝕み、死に至ると考えられているから。斎郎とてそうだ。槐の恐ろしさを目の当たりにして、槐を心配しながらも未だ槐の呪詛を抱えた姿は頭から消えやしない。


 しかし、槐が語る母の姿は、情が深い女性そのもの。化生であった事すらも霞みそうな姿に、斎郎は返す言葉も無かった。

 

「……お母さんはいつか、人が昔の里を思い出してくれると期待していた。でも、お父さんが殺された後、閉じ込められて。そこで初めて……人が憎くなったって」

「殺された……?」

「お父さんは、お母さんが傷つけられるのを見ていられなかったみたい。毒酒を造るのをやめさせようとしていたの……だから、殺されたって……ずっと昔のことらしいけど」


 斎郎は押し黙るしかなかった。槐の父が人であるという記録はあっても、死に関しては仔細は語られていない。都合が悪い事は、書き連ねはしないだろう。槐の母とは対照的な人の醜悪さとしか。吐き気がするような事実に眉間を押さえながら、斎郎は一つの事実に気がつく。

 封じ込められる前から、父親は死んでいるのだ。だとすれば、槐の母は身籠った状態で封じられた事になる。


「……なあ、槐……お前の母親は、何故」


 何故、封じられてしまったのか。何故、封じられたまま、何もしなかったのか。

 斎郎は神という存在も、精霊しょうりょうも、信じている。太古から、神に神便鬼毒酒の手法を教わったという言い伝えを信じて、今も尚、信仰と共に生きていると言っても良い。だからこそ、槐が人ではないとあっさりと認めても、共に過ごし、夫婦になる決意もあった。


 しかしそれ以上に、神なるものの恐ろしさも知っている。精霊と呼んではいるが、槐もまた半身とはいえ神なるものの一員である。だから歳を取らないし、食事も必要としない。肉の内に棲まう毒は、神の力そのものだ。その様な存在が、果たして安易に――例え、石清水の封じの力があったとしても困難を極めた筈である。何せ、蔵人達は神からこぼれ落ちた残滓を扱う事は得意としても、神自身を操る術では無いのだ。


 続かない斎郎の言葉の意図を汲み取ったのか、槐は僅かに宿した淀みを隠すように目を伏せ、小さくも言葉を溢した。


「……私を、宿していたから」

「それは……」

「私の父は人。人の血が混じった身重の母は、人の側に寄っていた。そして、私が側にいたから――――お母さんは、誰も怨んだりしなかった」


 槐は真っ直ぐに斎郎を見やる。ほんの数日前まで真っ当に話をする事など、もう出来ないだろうと諦めていた瞳は昔と変わらず、無垢で、澄み切った色を宿す。濁りなきその色にもまた、槐の言葉通り怨みなど見当たらない。


「斎郎は、神様が死んじゃうと何が起こるか知ってる?」

「……いや」

「神様の死はわざわいを呼ぶ。だから、神様は死を嫌う。土地神なら、生まれた場所に戻って、もう一度生まれ直すの」


 槐は淡々と語りながら、静かに続ける。


「お母さんは帰れなかった。それどころか、不浄な存在になるところだった。だから……死のことわりから外れる為に、私の中に消えてしまったの」


 それしか、手段が無かったから。全てを語り終えた槐を前にして、斎郎は何一つとして反論が出来なかった。元より、するつもりもない。槐が語る全てを受け入れて、信じていた。


「……そうか……そうだったのか」


 斎郎は自嘲気味に笑って、かと思えば一つ息を吐いた。


「俺は本当に馬鹿だ。お前の事も、お前の母の事も、何一つ知ろうとしなかった」


 もう元には戻れない過去を憂いて、斎郎の頭は稲穂のように項垂れる。しかし、そんな斎郎に対して、槐は過去を懐かしむように、そっと言葉を紡いだ。


「私は嬉しかったよ」

「え?」

「斎郎が何も聞かないでいてくれて――私を恐れることもなく、他の人達が話をするように何も気兼ねなく話しかけてくれる事が、私は嬉しかった」

「俺は、ただお前といる時間が好きだっただけだ」

「私もそう。斎郎と過ごす時間が好きだった。斎郎が話をしてくれる外の話も、詳しくは判らなかったけど好きだった。斎郎が、いつか一緒にと言ってくれて……」


 槐の声は沈んでいき、最後までは言葉は続かなかった。当時を思えば、当然だろう。


「……俺は杜氏の後継――蔵人のまとめ役で、お前から血を奪う立場だった。俺は、里の為に生きると決めて、立場上、結婚も別の女と……」


 斎郎は苦々しく告げたが、どうやっても槐には言い難い事で言葉は尻すぼみになっていく。しかし、槐はそれを気に食わないと言わんばかりに、言葉を被せた。

 

「言って欲しかった」


 斎郎は、はたと顔を上げた。

 

「斎郎はいつも、私に何も言わずに決めてしまう。私が外の事を知らないから、私が閉じ込められているから、仕方がない事だからって、何も言ってくれない。私を人らしく扱ってくれるのに、私を閉じ込められた憐れな女として扱う斎郎は好きじゃなかった……私に何をする事が出来なくても、話をして欲しかった」


 槐の言葉は真っ直ぐだった。いや、槐は昔から純粋で真っ直ぐな言葉を斎郎へと向ける。ああ、と一つ息を吐いて、斎郎は目頭が熱くなるのを感じた。


 ――ああ矢張り……俺は無垢で真っ直ぐな槐がんだな

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