第六話 指切り 一
斎郎は何とも言い難い感覚で目を覚ました。呼び起こされたと言っても良いかもしれない。いつもは――特にここ最近は槐に事に思い悩んでいたからか、精神の疲労が肉体にまで侵食して起き上がる事すらも一苦労だったというのに、身体は自然と動いた。動いては、すっと上体を起こして開かずの間がある方角を認める。もう、二十年以上前にも似た感覚があっただろうか。不思議と、槐の存在が身近に感じるのだ。それも、もう永く感じていなかった事だけに、やや不吉でこそあったが、それでも槐の身が無事と判る。
――ああ、良かった
斎郎は安堵が心の底から湧き上がるようで、ほっとひとつ息を吐いた。しかし――というか当然、槐が元に戻ったとすれば以前と同様に血の採取をせねばならない。槐がまた苦しむかと思うと、せっかく軽いと感じた身体はずんと重くなる。
――昔のように……か……無理だよな
昔のように。夢物語のような言葉を吐いた自身に、槐が怒りを向けた事は至極当然の事だろう。斎郎の心中でも未だ燻るでは済まない火種が轟々と燃えて、心を蝕み続けているのだ。斎郎は自己保身の為に、槐を傷つけてしまった後悔を今も抱え続けている。槐と顔を合わせる度に心苦しく、我慢を強いるしか脳の無い自身に何度と嫌悪した。
石清水が槐の犠牲の上に成り立っている事実と、斎郎の裏切り。それを前にして、どうやって昔のようになどと宣えたのだろうか。斎郎は自重気味に笑って、両手で顔を覆った。
――俺が馬鹿なのは昔っから変わらねぇ……
様子を見に行かなければならないが、今度はどんな調子で話し掛ければ良いだろうか。そもそも、昔はどうやって話をしていたのかも記憶が曖昧になって、悩めば悩むほどに、どつぼに嵌っていった。
だが、はたと先日の――芳雀の姿をした男を思い出して、斎郎は顔を上げた。ふっと現れて、何もする事もなく帰っていった。そんな男が、口にした『神に程近い存在が黙って封じ込められていた意味を考える事だ』という話。
――あれは……槐の母を指しているよな
幼い頃に槐と交わした約束。母を探すと言って、叶わないまま、時だけが過ぎ去ってしまった約束。記憶と共に小指に小さな感覚が蘇る。幼い頃に交わした、小指と小指を重ねた些細な感触が今もあって、斎郎は何気なく自身の小指を見つめた。
――様子だけでも、見に行ってみようか
――そうだな……今日は一人で行こうか
ぽんと浮かんだ考えは、とても名案と呼べる代物ではなかったが、斎郎は思いついたままに身体が動いた。やはり身体が軽いのか、思うように身体が動く。まだ
斎郎は着替えを済ませると、コソコソとした足取りで。自然と、昔と変わらず首から下げたままの鍵へと手をやっていた。
◇
正面切って顔を見るのはいつぶりだろうか。まだ朝日が差したばかりの薄暗い部屋で、槐は礼儀正しく座っていた。気の所為か、表情はいつもよりも柔らかく感じる。昔に比べれば固いかもしれない。それでも、緊張も強張りも――それこそ、斎郎へと向けていた嫌悪も、表情からは何一つとして見えてはこなかった。
斎郎は格子の向こうへと当然のように向かおうとしたが、もう一つの鍵を手に取ろうとして――止めた。血を採るわけではない。話がしたいだけ、顔色が見たいだけ。そう自分に言い聞かせるようにして、斎郎は格子の前に胡座をかいて座り込んだ。
そうしていると、思い出すのは遠い過去だった。初めて出会って、対面した幼い過去。今も尚、約束はそのままに時だけが流れたようでもあった。もしかしたら、いつかのように話せるのではないか。そんな僅かな期待が生まれるも、不意に目線を下ろした先にある衰え始めた自身の手を見ると、そんな幻想は煙の如く消え去っていた。
向かい合っているだけでは意味がない。斎郎は乾いた唇を薄らと開いて、ようやく言葉を口にしようとしたが――。
「今日は、一人なのね」
斎郎は驚きで反応が遅れた。槐から話しかけられるのは、とんと久方ぶりの事だったのだ。
「……あ、ああ……お前が眠ってしまって、心配だったんだ」
「……どうしてこちら側に入らなかったの?」
「俺の顔を見るのも、近づくのも、腹の底から嫌っているのは判っている。顔色で調子が判ればそれで良い」
「そう」
槐は静かに目を伏せた。
落ち着いている。何かを――斎郎を嫌悪して、対面するのも嫌がっていると言う素ぶりではない。何かしら、整理のついた面持ち。そう、何か一つの区切りでもついたかのような。
こんな清々しい槐の顔を見るのは、いつぶりだろうか。それこそ、斎郎は薄れかけていた過去を掬いあげたかのように、自然と口は動いた。
「……昔、お前と交わした――
槐は顔を上げて、斎郎と目線が勝ち合うと静かに頷いた。
「覚えてる。斎郎が、針を飲むのを怖いと言っていたのも」
斎郎は苦笑いを浮かべて、頭を掻く。「それは忘れてくれ」と、幼い年頃の発言であっても、思い出した恥ずかしさが妙に苦々しかった。そんな思い出を誤魔化すように、斎郎は頭を掻きむしった手を止めて、もう一度槐と目線を合わせた。
「……槐、お前は――」
斎郎が何かを言いかけて、だがそれに被せるように槐が口を開いた。
「私、母がどうして消えてしまったか、本当は知っているの」
斎郎は一度だけ、槐に問いかけた事があった。母が消えてしまった瞬間を見たか? と。しかし槐は覚えていないと言うものだから、それ以上の深入りはしなかった。しかし今、斎郎の答えに近い言葉が零れ落ちて、それまでうまく噛み合わなかった辻褄がすとんと噛み合ったような気がした。誰も目にしなかった先代の槐の死。しかし、槐が目にしていないのは不自然と考える者達。覚えていないと言った槐の言葉自体が、嘘だったとしたら――
「先代は、何処に……」
槐は膝の上に置いていた右手を胸に当て、そっと呟いた。
「母は、私の中に溶けて消えたの……この里を呪わない為に」
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