第五話 不実 三

『真名を名乗ってはいけない。それが、誰であれ。人であればそこまで大きな影響は無いが、――は半分は私と同じ化生の身。真名を奪われたなら土地に根付かせ、支配権を与える事も可能だ。これは本当に大切な事。だから――――』


 槐の記憶に、ふつと記憶が蘇る。それも、母との思い出の一つと言える。けれども、母が槐自身を何と呼んでいたのかが、思い出せない。以前、斎郎にも名前を尋ねられた事だった。斎郎は、知らないのだと勘違いしたようだが、本当は違う。槐は思い出せなかっただけなのだ。


「もし、お前が一度でも俺と此処に永劫いる事を口にしていたら、俺は消えるつもりでいた」

「どういう……」


 それまで凪いでいた叢雲の金色に、再び怒気が孕んだ。

 

「このような狭い箱庭で生涯生きろと? ここで夫婦の真似事でもするのか? 人に支配され、命を摘み取られ、ただ不遇を嘆くのか? 仮初めの――それこそ夢幻ゆめまぼろしを抱いていたいなら一人でやってくれ。俺はお前からもらい受けた力を全て返して、死を選ぶ」


 怒りと嫌悪が入り混じる声が、全て本音なのだと告げていた。金の瞳は炯々と槐を射抜く。


「もう契りは交わした。その場合、俺はお前を此処から出すという契約を反故したとみなされるだろう。だが構わん。どうせ死ぬ命だった。意味の無い生より、ずっとマシだ」


 あっさりと生を吐き捨てる叢雲に槐は血の気が引いた。生白い肌はより青く。瞳には悲しみがまた増えた。いや、それ以上だった。

 

「駄目、死んじゃ……」

「どうした、不変の夢に戻るだけだ。俺の幻影でも生み出せば、それこそ慰みにでもなるだろう。何も悲しむ事など無い筈だ」


 槐の脳裏に蘇るのは、母が消えてしまった翌日。斎郎が訪ねて来なくなった翌日。変わらないはずの景色が、一等虚しく思えた日。叢雲が消えた先の景色を思うと、今まで以上の孤独に槐は一段と恐ろしくなった。

  

「……いや……消えたらもう……」

「ならば何故、幻夢に縋る‼︎」


 腹の底から沸き立つような叫びに、槐はまたもはらりと涙が溢れた。けれどもそれは、嘆きのそれではなかった。叢雲が、真摯に、槐を想い叫んでいる姿に、ただ涙が溢れ、止まらなかった。

 槐は、何となしに噛まれた首筋へと手が伸びる。まだ、痛みが残るそこ。例え、痛みがあったとしても、幻夢の中でしか会えない叢雲が、夢の中の存在だけなのかが判然としなかった。けれども何かに気づいた槐は、はたとして叢雲を見つめた。


「……私を怒ってくれる人……初めてかも……」


 槐はきょとんとした顔を晒して、更には間の抜けたような声でつぶやいた。そんな槐に虚を突かれたのか、それまで強張っていた叢雲の顔が解れて、槐の肩口に額を乗せて息を吐く。先程のような諦めではなく、どこか安堵のような。


「……俺はどうでも良い相手にここまで手をかけはしない。お前に命を救われ、悪神へ堕ちかけていた心身共に救われたからこそ、何としてでも此処から出してやりたいと思っているんだ」


 少しばかり怒気が冷めて、切実に語りかける叢雲。僅かに空気が緩んだ。そんな気がして、槐は恐る恐るではあったが、叢雲の頬にある鱗に指の先で触れた。


「私……私に触る人は、私を怖がるの。私の血が毒だから。だから、叢雲が私の血が毒と知っても触れた事も、恐れ無い事も嬉しかった。それが、私が望んだ事だから――夢のようだと思ったの」

「……永く、夢に浸りすぎたな」


 叢雲が顔を上げれば、そこには見惚れてしまうような、甘く柔らかな笑み。その笑みが槐の頬を熱くした。ああ、これが幻でないというのなら――


「あなたと、現世で逢いたい」


 槐は叢雲の頬にある鱗を撫ぜる。

 

「ああ、俺もだ」


 叢雲は悪戯に鱗を撫でる手を捕まえて、口付けを落とした。


「暫しの別れだ」

「……うん」


 槐の中に、もう疑いは無いに等しい。けれども、不安は残る。寂しさからか、眉尻が下がっていった。


「不安か?」

「あの……」

「いや、そればかりは仕方がない」


 叢雲は左腕の袖を捲って鱗を晒すと、そのうちの一つに触れた。かと思えば、パキッ――と何かが折れるような音がして槐は目を見開く。


「叢雲っ!」

「お前の痛みに比べれば、大した事は無い」


 そう言って、叢雲は今し方の音の正体を槐の掌に一つの乗せた。藤花の花弁よりも一回り大きな――黒い鱗。花弁を思わせる形は、槐の掌の上で淡く紫を映し出して、しかし決して染まりきる事は無い。叢雲の黒を小さく閉じ込めたようなそれ。槐は驚いたまま一度鱗に目を落としながらも、再び目線は叢雲へと戻っていた。


「叢雲、これ……」

「すまなかった」

「え?」

「お前を追い込む為とはいえ、狭い箱庭などと蔑むような事を言った」


 槐はかぶりを振った。叢雲は、考えなしに言葉を吐いたわけではないのだと知っているから。全ては槐の為の言動であったからこそ、素直言葉を受け入れられたのだろう。変わらない無垢な瞳に、叢雲はふっと微笑んだ。

 

「必ず迎えに行く。それを御守りがわりにして待っていろ」


 そう告げると同時、叢雲の手が槐の頬を包み込み、最後に触れるだけの口付けを槐へと送った。


「雨を待て」


 叢雲の手が離れ、互いの顔に距離ができた時だった。叢雲の身体が、薄紫の花弁へと変じて行く。ぼろぼろと崩れるように、ザアザアと吹く風に流れるように。

 叢雲は、藤花幻夢の世界から去っていった。


 ◆


 朝だ。いつもであれば、陰鬱な時間と考えただろうか。眠りから覚めたばかりだと言うのに、槐は特に気だるげな様子もなく。それどころか、不思議と目覚める事に嫌悪すら浮かべなかった。

 そっと目を見開いたところで、現世だと知らしめる天上と、格子が視界に入るだけ。だが、同時に手中に違和感を感じた。投げ出されたままになっていた右手の中。


 槐の手の中には、藤花の夢路で見たままの黒い鱗が一つ、握られていた。

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