第四話 不実 二
叢雲から憂いた表情が消えた。それまで槐に見せたことの無い、無にも等しい顔。冷めた眼差しを写し取ったような冷えた声色が、「ああ、次で事足りる」と槐に告げた。
しかし冷えた声とは違い、花房を掬い上げるような優しい手つきの叢雲の腕が、そっと槐の腰に回った。かと思えば、槐の身体がふわりと浮く。槐の身体はあれよと叢雲の腕の中へ。
叢雲の膝の上、互いに向き合う姿勢故か、嫌でも鋭い金色の眼光が槐に突き刺さった。余の力強さに槐は目を逸らそうとするも、叢雲の両の手が槐の頬を覆ってそれを拒む。
「槐、本当に何も望まないのか?」
ほんの一言。叢雲は熱い眼差しと共に言葉を口にした。
槐は唇を噛む。叢雲に何度と問いかけられた言葉。『願いは?』『望みは?』その全てが、槐には無意味だった。
――期待なんて……無駄だもの……
もう冷め切った心は、不変を望み続けるだけ。誰かに愛された記憶だけで生きた方が、余程良い。次に何かを望んで消え去った時、もう心は耐えられない。槐に、返す言葉など一つも無かった。
槐は静かに目を伏せる。叢雲が消える事を憂いながらも、頬を包む叢雲の手へと温もりを求めるようにそっと自身の手を重ねた。誰かと深く関わる事を恐れながらも、寂しさ故に温もりを求める手。なんて、我儘なのだろう。なんて、不実なのだろう。槐は自身が嫌な女だと、愚かな女なのだと、腹の底で嘲笑うしか出来なかった。
そうやって、槐が言葉を返さなかったからだろう。返事を待つ事に飽きた声色が、槐へと降り注いだ。
「ならば、そうやっていつまでも己を憐れんで生きていれば良い」
突き放す叢雲の声が聞こえて、槐は目線を上げようとした――が、それよりも早く顔を強く引き寄せられ、気づいた時には互いの唇が重なっていた。
荒い。喰らいつくように、奪い取るように。荒々しくも、唇の形を準えるような動きに槐は翻弄されるばかり。けれども、身体を重ねた時のように濃艶であるはずなのに、見えるのは叢雲の怒り。不実な槐へ、心中にある想いが伝わらない腹立たしさを打つけるように。何度も、何度も繰り返しているようでならなかった。
唇が離れる頃には槐の息は乱れ、思考する気力も残されていなかった。呼吸を整えようと、叢雲に寄りかかる。が、不意に叢雲の手が頭を覆った。ぐい――と、強く、頭を叢雲の肩口に押さえ付けられたと感じてると同時、槐は自身の一方の首筋――耳の下辺りを生暖かい呼吸が撫でた。生温かくも、ぬるりとして。今の今まで唇に感じていた感触が、肌に落ちる。先程の荒々しさからは一転して、肌を慰めるように優しく、しかしどことなく艶かしい肌触り。一度、二度、三度と。着物の襟首が寛げられ、晒された生白い首の筋を辿るように口付けを落としていくものだから、回数を重ねる度に槐の肌を熱くした。そして、四度目の口付けが落とされた。だが同時に訪れたのは、槐が感じたものは肌を貫く痛みだった。
「あっ……」
ぶつっ――と、牙が肌を貫く感覚。ゆっくりと肉に鋭い牙が食い込んで、肉を圧迫するような鈍痛が槐を襲った。
痛い。
痛い。
痛い。
槐はあまりの痛みに、叢雲の衣にしがみついた。もう、鱗の手触りを楽しむ余裕もなく、ただ痛みに耐えるばかりの時間は苦痛でしかない。前に二度も同じ痛みを味わっている筈なのに、到底同じ痛みと思えず、堪らずに槐は涙を溢した。
そして、漸く気が付いた。如何に、今まで叢雲が痛みを伴わないようにと気にかけてくれていたかを。
――ごめんなさい……
最初の一度目はまだしも、二度目の行為には情愛でなくとも心が伴っていたのだと。苦痛を和らげようとしていたのだと。そんな事にも気が付けなかった事に、槐の涙は止まらなかった。
「……ごめんなさい」
その一言で、牙が圧迫する感覚がすうっと消えた。
「なぜ、謝る」
まだ冷めたままの叢雲の声色。今も血が滴る叢雲の口も、金色に輝く瞳も、感情は凪いだまま。
「…………どうやったら……人を信用できるかが、もう判らないの……」
嗚咽混じりの声だった。痛みと、心の底で溜まりに溜まった黒々とした汚泥のような感情。自身の醜い部分を曝け出そうとすると、苦しくなるばかりの心が喉を締め付けて言葉を止めようと
「お母さんが消えて、寂しかった……けれど、信じていた人が出来て……いつか、その人と同じように生きていけると思ったら……でも、結局……その人は他の人と一緒になった……」
「一度裏切られたから、俺は信用出来ないと?」
「……私の血は……価値があるのでしょう? お母さんもそうだった……だから、私を助けようとしてるんだと……約束をしたって……どうせ……」
永く、一つ所に閉じ込められた弊害と、特殊な化生の身という価値。また、別の場所で利用される可能性とてある。約束があったとしても、裏切らないとは限らない。そんな、槐の中で生まれた考えが、信頼という概念を消し去っていた。
しかし、そんな槐の考えを一蹴するように、叢雲の口からは諦念の息が溢れた。槐は思わず目線を上げる。叢雲は口周りに残った血を拭って、また一つ息が溢れた。
「俺は、最初から誠意を示したつもりだったが」
「……何の事?」
今も涙ぐんだ声が、不安げに問い返す。涙を浮かべた無垢な眼差し。いや、無知と言うべきか。漸く、叢雲と目線が交わって、叢雲の手が槐の頬へと延びた。流れる涙を拭い、また一つ溜息を吐く。
「
「……ごめんなさい……真名が大事な
「真名は存在の本質であり、命も同然だ。俺の真名を知るお前は、俺を支配する権限すらある」
「……え?」
「もしもお前が、俺を
槐が望んでいた言葉を、凍える冬よりも冷たい声音が、吐き捨てるように言った。
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