第三話 不実 一

 ◆◆◆


 藤花の夢路――その一端。藤の蔓に背を預ける女がいた。長い髪は『槐』の花の如く清白。女の見目は名花めいかのような気品に溢れていたが、透き通る肌は幽鬼でも思い浮かべそうなまでに青白い。しかし併せ持つ気品故か、目を伏せる姿は儚気だった。そんな白髪の女の膝の上には、黒い髪の幼い女の子。白髪の女から送られる視線は優雅に藤紫を堪能しながらも、時折目線を落としては柔和な笑みを浮かべて、我が子を慈しむように女児の頭や背を撫であやす。それが甚く満足といった容姿で、幼児は満足気に白髪の女へと擦り寄った。母を求め、愛情を当然のように享受する姿がまた愛おしい。そんな、慈愛に満ちた顔つきの女の唇が、ゆっくりと動き出す。


『昔ね、この里――この山は、水分神みくまりのかみと大岩の影響で、常春の世と云われていたの』


 白髪の女は幼児の背を撫でながら、懐かしさを噛み締めるようにゆっくりと思い出を紡いだ。幼児もまた白髪の女が思い浮かべる情景に興味を持ったのか、顔を上げて言葉を返した。

 

『とこはるって?』

『ずっと春という事。冬の神の力も受け付けない程に大岩の神気で満たされた山は、いつも賑やかだった』

『ここみたいに?』


 幼児は天を見上げる。藤花の花房がささめき合い、サアサア――ザアザア――と、二人の会話に加わるよう。白髪の女もまた天を見上げて、淡く笑った。

 

『ここよりもずっと。お酒の好きな人間が山に住み着いてね。彼らが造る酒は、もう格別に美味だった。酒を造っては山中に振る舞って、神も、精霊も、妖も、野山に住む動物も――それこそ人も、みんなで宴会ばかりしていたよ。山中の力が一つ所に集まるものだから、冬など到底近づけなかっただろうね』


 白髪の女は母の顔で語りながらも、胸に残る想いを全て曝け出しているように高揚した声を上げる。けれども、言葉を終えると同時にぷつっと糸が切れてしまったように、白髪の女の顔からは笑みも生気も消えていた。


『もう一度、あの頃の景色が見たかった』


 そう言って、白髪の女は涙を溢した。幼児を腕の中に閉じ込めて、何度と『ごめんなさい』と繰り返す。何度も、何度も。


『……お母さん?』

『あなたが辛い道を歩む事になるのは見えていた。それでも、あの人が残したものを消し去ってしまうなど私には出来なかった……』


 白髪の女の手が緩む事はなかった。幼児は、理解をしたのか、それとも何も分かってはいないのか。


「大丈夫、泣かないで」


 小さな口は、母を慰める言葉を紡ぎ続けるだけだった。


 



 夢――夢の中の夢。過去の記憶の幻影のような夢。槐は意識が浮上する感覚と共に遠くなる母の姿に、一粒の涙を溢した。


「……槐、どうした」


 槐がはっきりとした目覚めの兆しを見せたのは、槐を慮る声を聞いたからだろう。重たげな瞼をゆっくりと開いて、藤紫の景色よりもまず鱗の黒が目に入る。そして次に、さらさらりと流れる黒髪。濡れたように艶めいて、鱗とはまた違う黒だ。

 目覚めた槐は何気なく「叢雲」と名を呼んだだけだったのだが、それに応えるように叢雲の指が槐の涙を掬い上げた。


「嫌な夢でも見たか?」


 微睡んでしまいそうにもなる程に柔らかな声音に、槐は身体を起こしながらも首を振る。その前まで嫌な夢を見ていた気もするけれど、最後に見た母の夢で、どうでも良くなっていた。


 母を思い浮かべるだけで胸が温かくなる。母の抱擁も、語る思い出も、藤の景色も、優しさも、全てが母との思い出。

 槐はじんわりと滲む温度を胸に抱きながら、いつものように藤の蔓に背を預けた叢雲への隣に座って、叢雲の肩へと頭を預ける。


「とても良い夢」


 それだけ告げて、槐は鼻をすんと鳴らした。


 ――ああ、雨の匂い……


 別れの時が近い。槐は自分の身体が万全と感じたと同時に、叢雲が必要とするものがあと一度のような気がして、胸が苦しくなった。また、目の前から居なくなる。


 消えてしまった母。

 槐の心を置き去りにして遠ざかった斎郎。

 そして――

 

 約束に何の意味があると言うのだろうか。約束を違えたところで、罰など受けて欲しくはない。そう、今のままの通り。普遍な夢のままが一等安全なのだ。


 決め込んだ心は揺れ動かない。槐はそっと叢雲に告げる。


「叢雲、血が必要でしょう?」

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