第二話 石清水の酒 二

 男の言葉は、聞くものによっては侮辱にも聞こえたかもしれない。けれども、斎郎はそうは考えなかった。男が言っているのは、恐らく春の酒の話。しかし、それ以上にという言葉が引っ掛かる。


 ――というのは、なのだろうか


 槐の中にいた存在は、化生の性質のものだろう。そういった者たちの時間の流れは、人間の常識では計り知れないところにある。槐との付き合いで身に染みた考えが、斎郎の唇を動かしていた。


「それは、どんな味だったんだ」


 遥か昔、石清水の酒は神の喉をも唸らせたと云われている。恐らく、春の酒――藤花を使った酵母の酒が、それに近いのだろう。しかし時の流れと共に、技術の継承はされても全てが完全とはいかない。どれだけ神気を帯びた清水を使ったとて、遥か昔の味わいから遠のいている事ぐらいは斎郎でも判っていた。


「甘い……花の香りがする芳醇な酒だ。それでいて舌に絡みつくような味わいだった。春そのものを味わえると言っても良い」


 芳雀の姿を借りてはいたが、男は懐かしきを思い出すように視線を斎郎から外し、虚空を見つめる。だが、それも束の間、男の双眸は再び斎郎へと戻った。


「……だが、今のこの里では無理だろう」

「何故だ」

「昔あれほどにいた精霊しょうりょうの気配が無い。水分神みくまりのかみの気配も薄弱として、加護も殆どないと言っても良い。あれは、様々な神の恩恵をうまく利用して造られた酒だったのではないだろうか。かつてこの地は常春と言われていた。恵まれた土地の実りを利用してこその技術だったのだろう。大岩もいつまで清水が湧き続けるか……まあ、これでは山が鎮まるのも近いな」


 男の顔は薄暗く、もう芳雀の語り口も消えた。これが、化生なる存在を信じない者であれば、芳雀のたばかりとでも考えただろうか。しかし、斎郎は神の信仰と共に生きてきた。恩恵を受けてきた。化生の存在と心を通わせてきた。今、天変地異が起これば、斎郎は水分神みくまりのかみの怒りと言われても信じるだろう。


「……あなたは、水分神みくまりのかみ……なのだろうか」

「いや違う」

「では、鬼か妖……だろうか」

「それとも違うな」


 では、後は――大岩に意思は無い。他に思い当たるような神の名前も思いつかず、「では、目的は?」と斎郎は問いを変えた。


「言った筈だ、いつまで続けるつもりか、と」

「毒酒のことか? あれは、続けなければ生きては……」

「何故だ。神便鬼毒酒じんべんきどくしゅで倒すべき者――酒呑童子はもうこの世にはいない。お前たちは役目を終えた筈だ。誰が続けろとでも言った。何の為に必要だ?」

「それは、今も鬼や妖が――」

「その為に、精霊を殺してもか?」


 斎郎の肩が跳ねる。


「あれではいずれ死を迎えるぞ。お前の代か、その次か。そうなればこの里――いや、この土地は……さて、どうなるやら」


 深く沈む声は地響きのように重暗く、斎郎の胸へと突き刺さった。過去に、槐は一度呪詛を放ったことがある。槐が仔細を語る事こそないが、斎郎への恨みが根元である事は想像に難くない。だが、そうであるならば疑問は残る。槐の母のるいが何一つ起こっていない事だ。


「先代――槐の母が消えた時には何も起こらなかった。それが何故、今の代で起こると言うんだ。あんたの目的が何かは知らないが、我々とて生きていかねば――」


 斎郎の言葉はそこで詰まった。確かに芳雀であるその肉体で、炯々とした金色の眼光が斎郎を射抜いて、それ以上続けられなかったのだ。


「そなたらは神の恩恵を受けて生きて来た割に、ありがたみを忘れているらしい。神に程近い存在が黙って封じ込められていた意味を考える事だ。でなければ手遅れになるだろう。理解できないのであれば、少しは耳を傾ける事だな」

「何を……」

「自分で考えろ」


 男は冷たく言い放つと、「さて」と呟いて立ち上がる。


「こちらでの用事は終わった。俺は戻るとしよう」


 斎郎は慌てた。戻るなどと言う不穏な言葉に、嫌な予感しかしないのだ。


「ま……待ってくれ、そもそもあんたの目的は何だ⁉︎」

「この芳雀とやらの記憶で、此処が岩清水と知って、古き酒の味を思い出しただけだ。最後に味わっておこうと思ったが……致し方無い」


 芳雀の姿をしたそれは、机の上の小瓶に木栓をする。それだけで、毒々しさは潰えて、小瓶はただの入れ物と成り代わった。それでも僅かに滲み出る気配。そこへ、男は勝手知ったると言わんばかりに、斎郎が外した封じの呪符を戻していく。芳雀の記憶を読んだと言うのは、嘘偽りでは無いのだろう。だとすれば、男が目覚めた時から芳雀を演じていたのか、それとも操っているのか――どちらとも言えない状況で、小瓶を机に置いたまま、男は芳雀の姿で斎郎の横を通り過ぎて行こうとしていた。


「待て!」


 斎郎は男の眼光も忘れて、芳雀の二の腕を掴んだ。そのまま、男が芳雀の姿のまま消えてしまうような――そんな恐怖心からか気が急いていた。しかし、視線を返した男の顔色に特に不快な様子もなく。斎郎の心中を察したのか、淡々とした様子で口を開いた。


「安心しろ、この男の肉体は返してやる。だが、二度と踏み込ませるな、次は生きては返せんぞ」

「……あんたは何者なんだ」

「さてな。ああ、今の俺に結界を破る力は無い。どの道、あれを破壊するとなれば相応の危険が伴う。流石は石清水と言ったところか」


 そこまで言って、男の金の目はいい加減離せと言わんばかりに、じとりと斎郎を睨める。斎郎は思わず押し黙り、手の力を緩めると、芳雀はそのまますたすたと歩き始めた。

 斎郎は付き従うしかなかった。戻ると言う言葉通りに動くとなれば、開かずの間の鍵を壊される恐れがあるのではないのか。本当に芳雀の肉体を返すのか。他にも何か企んでいるのではないか。様々な憶測が生まれては斎郎の胸中を悩ませ続けた。

 そうして辿り着いた開かずの間。斎郎は、芳雀と思い込んでいた男をすんなりと槐の元まで案内すると、男はそっと眠る槐の隣へと腰を下ろした。


 数日前に芳雀がして見せたように、両の手を重ねて――斎郎が見守るそこで、男は一度も振り返る事もなく瞼を閉じた。

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