第四幕 約束
第一話 石清水の酒 一
目の前に、一つの器がある。
呪いが仕込まれた陶器の小瓶だ。中身は例に違えず槐の血である。封じられているからか禍禍しさの片鱗もないが、どことなく小瓶の清白は白々しくも見えるのは思い込みだろうか。そんな忌まわしい小瓶に、斎郎はそっと触れた。
薄暗い――蝋燭の灯りで照らしただけの、いつもの小さな蔵。槐の血を保管するためだけのそこで、作業台として置かれた机の椅子に座る斎郎は手中に収まっ小瓶を一人見つめる。槐は今も眠ったまま時だけが過ぎ、もう十日は血を採っていない。春の酒造り自体は酒母の工程まで入り、今年の分は必要ないのだが、延々と続く毒酒造りの為には必要な工程だ。
槐の寿命が尽きるまで延々と続く。斎郎が、死んだ後も。
斎郎は杯へと注いだ。ただの赤々としたそれ。甘く香り立つそれに穴が空くかと思うほど覗き込むが、何か変化があるわけでもない。
毒。そう毒だが――斎郎にとっては何とも言えないものだ。
『神の意に
斎郎にとって、槐の血は毒ではない事は確かだが、薬であった試しもない。だからか、斎郎が小瓶に触れる時、毒に近づく時、誰よりも軽率だ。その杯に触れる、今でさえも。斎郎は杯を口元まで運ぶとぐいと喉へと流し込んだ。それと同時だった。
「それ、意味あんのか?」
血を飲み干して、ひとつ息を吐いた斎郎はゆっくりと頭を声がする方へと向けた。声の主――芳雀が入り口で、事も無げに閉じた扉に背を預け斎郎を見やっている。扉が開いた音も、芳雀の気配も、何一つ気付いていなかった。が、斎郎は驚く様子は無い。ただ、飲み干した杯を置いて、空になったそれの中をじいっと見つめた。
「今のところ、無いな」
「
斎郎は返答に迷う事は無かった。
「俺が鬼かどうか。それが知りたい」
「そりゃ、鬼になったと同時に死ぬな」
「ああ、そうだな」
気の抜けたような返し。それをどう思ったのか、芳雀が更に近づく足音が鳴った。音は、斎郎が座す机の横までくると止まって、かと思えば斎郎が穴が空きそうなまでに見つめていた杯を、ひょいと横から掠め取っていく。
「おい」
「前は俺も御役目をやってたんだ。危険は承知している。俺が飲めないのもな」
空になった、とは言っても多少なりに雫は残る。杯にも呪いがかかっているが、あくまでも毒を漏れ出さないようにするだけ。不用意に扱えばどうなるかなど、想像に難くない。それでも、芳雀の双眸はまじまじと杯を眺めて――それこそ何かを探っているようだった。
「槐は、いつ目覚めると思う」
「もう直だろ」
芳雀は目線を杯から逸らす事なく、軽々と答える。日々、芳雀と斎郎が共に槐の様子を伺いにいくが、傍目進展はない。けれども毎度の事、芳雀は問題ないと言う。斎郎は、その言葉を信じるしかない。何せ、見た目では何も判らないのだから、見鬼の言葉を鵜呑みにするほか術は無いのだ。
「なんだよ、また狸爺共に何か言われたか?」
「いんや、狸でも三十年以上前の槐の母親が消えた話を覚えていたようでな。流石に何も言わなくなった」
芳雀は興味もなさそうに「へえ」とだけ返して、そのまま杯を机の上に戻す。そうして今度は、まだ封が切られたままの小瓶へと手を伸ばした。木栓は開いたままで、斎郎はまたも止めようとするも、それを芳雀は「大丈夫だ」とヘラヘラとした調子で遮る。
芳雀は小瓶を高く掲げると、中を透かしてでもいるように――それこそ、熱心に食い入るような目つき。
「お前にとって、小瓶も中身も珍しくはないだろ」
「まあ、そうだな」
「……それで、中身は見えるのか」
物のついでに、程度だった。斎郎は見鬼ではない。あくまでも蔵人の血と術を受け継いで、神気が汲み取れる程度だ。
「いや、流石と言うべきか。
そう言っても尚、芳雀の双眸は小瓶を見つめたままだった。一体何が面白いのか。斎郎は、そんな芳雀を頬杖突いて眺めたが、ふつと芳雀の目が斎郎に落ちて――ほんの一瞬、芳雀の瞳が金色のように見えた気がした。
「……
斎郎は身構える。何か――嫌な予感が、身体を硬くしたのだ。
「なあ、いつまで続けるつもりだ」
「……何の話だ」
確かにその声は、芳雀そのものだった。声の調子といい、話し方といい、間違えようもない。目の色はもう、そこらによくある鳶色で、違和感は消えた筈――だのに、斎郎の胸中を不安が渦巻いてどうにも胸騒ぎが止まらなかった。
「この毒だ。
斎郎が立ち上がった勢いで、ガタン――と、大きな音を立てて椅子が倒れた。斎郎の顔は蒼白へと変じる。例え、斎郎に見鬼の才が無くとも、もう芳雀は人には見えなかった。
「お前は誰だ」
斎郎の肌がぞわりと粟立つ。ぐるぐると渦巻いていた嫌な予感が全身を駆け巡ったような。
『中にいた奴は問題ない。もう、出て行った』
芳雀は確かにそう告げた。けれどもその時にはもう――
「槐の中にいたのは、お前か」
芳雀から、軽薄な笑みが消えた。表情は凪いで、距離をとった斎郎を据えた目で見つめる。
「ああ、安心しろ。この肉体の持ち主をどうこうするつもりはない。どの道、今の俺では大した事は出来ないしな」
芳雀は手にしたままの小瓶から手を離さない。どうこうする気はないとは言っても、そう易々と信用は出来ない。斎郎の目には芳雀が人質のようにも思えて、嫌な汗が額から伝った。だが、身構える斎郎の予想とは裏腹に、芳雀――らしき男の言葉は思ってもみないものだった。
「なあ、この里の酒はないのか?
斎郎は返答に困った。あるにはある。冬に造った酒が、少しだが残っているのだ。
「……少し、待っていろ」
◇
それから、斎郎は再び蔵に戻ってきた。芳雀は、斎郎が座っていた椅子に座って、斎郎がそうしていたように小瓶を眺める。その姿はどうやっても芳雀で、違和感は見当たらない。
斎郎は無言で机の上に持ってきた杯を置くと、まだ家に残っていた酒を注いだ。トクトクと、杯を満たす濁りの無い透明の清酒。
芳雀は斎郎に目をくれる事もなく、それをあっさりと飲み干す。が、眉根を寄せて、やや不満げな顔を
「……昔の味と違うな。あれは甘い酒だった」
「なんだ、不満か」
「ああ、
そう言って、芳雀は立ち上がった――その時には、瞳の色は金色へと変わっていた。
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