第九話

 ユキナは死にかけていた。

 槐の呪詛ずそによって。


 もう、夜が明けようとしていた。空は白み始めて、ぼんやりと明るい。空気はより一層凍えて、ゆっくりと朝が始まろうとしていた。そんな静寂の里の中、杜氏の家は引っ切り無しに人が出入りして、慌ただしいの一言だった。


 細くなったユキナの灯火が、ゆっくりと消えて行く。引き留めていたのは、蔵人でもあり、はらいでもある芳雀と芳雀の父の二人。代々、霊験の修行を受けてその身に確かに力を持つが、その二人でも精霊しょうりょうの力を直に受けたユキナから呪詛ずそを取り除く事は無理だと苦渋の面持ちで語った。

 

 だから、と芳雀の父は斎郎に言った。赤子だけでも助けよう――と。



 ◆◇◆◇◆



 斎郎が槐の元へと顔を出したのは、事が起こってから一日が経った後の事だった。手燭台に乗せた橙色の灯りが、格子に背を向けて眠る姿をゆらゆらと映して、斎郎はその背を呆然と眺めた。恐らく、狸寝入りだろう。誰かが近づくと、どうやっても夢から引き戻されるのだと槐は語ったことがあった。けれどもその時は、斎郎が来る時だからそれも別に構わないと言って微笑んでいた事も同時に思い出して、斎郎の胸が軋んだ。


「槐」


 斎郎はそっと槐を呼んだ。しかし反応は無い。容易に振り返ってくれない事は予想していた事だ。それでも、いつも通りに格子の扉を開いて、ひっそりと近づいた。

 いつもならば斎郎が槐の傍に寝転んで、その頭を槐が撫でて。抜け出せない心地良さを思い起こすように、斎郎は槐の傍に腰を下ろした。それでも槐はピクリとも動かない。槐の心境は怒っているなどといった生易しいものではないだろう。 


「なあ、えん……」

「もう、用事も無いのに来なくて良いよ」


 斎郎の言葉に被せた辛辣な槐の言葉それに、斎郎は堪らず槐を見た。


「……私の血が必要だから、傍にいたんでしょ? 優しくしていれば簡単に血が採れるから」 

「違う! 俺はお前と一緒に居たくて……」


 斎郎が弁明を述べようとした。が、槐がゆらりと起き上がって、真正面から斎郎を見つめて――何故だか言葉が上手く続かなかった。

 

「それなら、どうして私は此処にいるの?」


 槐の眼差しが、かつて無い程に無だった。斎郎を見ているようで、そうでない。


「私は、外では生きられないのでしょう? それなのに、どうして一緒にだなんて言えるの? それとも、私は母と同じで人じゃないから、そんな尊厳なんて必要ないの?」

「そんな事は――」


 斎郎はまたも言葉が詰まる。とても「そんな事は無い」と容易に言い返せる話ではなかったのだ。初めから、判っていた事だった。槐を外に出せないと悟ったその時から、郷を裏切れないと決めたその時から、斎郎は槐を異形として認めたも同然だったのだ。それも全ては、自己保身の為に。

 槐の半身が人である事実など、見てもぬふりをして。今まで見えていた人の部分など、自分だけが知っていれば良いのだと、決めつけたのだ。槐の意志を一度として尋ねる事も、慮る事もなく。


 斎郎は開いた口が塞がらなかった。

 何も、言えなかった。


 それまで培ってきた信頼を全て投げ打った――その結果が今。肯定したも同然の沈黙。薄闇のしじま。静寂を破ったのは、槐だった。


「……嫌い。嫌いよ。もう二度と顔も見たくない」


 槐の冷めた瞳は温度を失い、もう斎郎を見る事も無い。二度と、斎郎を信用する事は無いだろう。斎郎に美しく花が綻ぶ瞬間を見せる事も無いだろう。

 斎郎は槐へと手を伸ばす素振りも見せなかった。目を背けしまった槐にかける言葉もなく、その場を後にしたのだった。



 ◆◇◆◇◆



 その後の事は、斎郎ははっきりと思い出せなかった。芳雀に何かを言われて引き止められたような気もしたし、母が何か喚いていたような気もした。けれども、空っぽになってしまった心は何一つとして受け止める事が出来ない。夢と現実の狭間で彷徨っているかの様に、全てに実感が湧かないまま――斎郎は小さな倉の中で一人、机の前に座っていた。


 薄暗い――槐の血を保管するそこで、斎郎は目が覚めた心地だった。実際、それまで無意識に行動していたのだから似た様なものだろう。

 そんな、斎郎の目の前には、封手のかかった小瓶が一つ。中身は、言わずもがな槐の血だった。


 斎郎は、瞳は虚なまま小瓶を手に取った。中身は見えない。ただの陶器で出来た器に呪いをかけただけの小瓶だ。一見では、中身が血とは思わないだろう。中身が毒だとは思わないだろう。

 そんな変哲もない小瓶を前にして、斎郎は一人ごちた。


「これを飲めば、何も考えなくて済むのだろうか」


 疲れた思考が何気なく考える。


『神の意にかなった者が飲めば薬となり、鬼が飲めば毒となる』


 そもそも、鬼とは何だろうか。斎郎が考える鬼とは、妖と呼ばれる者達の一種だ。人を害し、人を喰い、人を殺す存在。けれども、それは果たして妖や鬼だけに言える言葉であろうか。


 だが、かしらは言った。


『腕を失った奴もいるんだ』


 と。人が毒に犯されるのであれば、必ずしも鬼の定義は人以外のものとは限らないとなる。かしら代師だいしが言ったように、神を槐とするならば、『鬼』とは――


「槐が鬼と看做せば、全ては鬼――か」


 精霊を一つ所に閉じ込めて、毒酒を作る為の素材として考える人なぞは、確かに『人でなし』となるだろう。それこそ、鬼の所業にも近いものと考えても理にかなう。

 実際、斎郎の父は槐を恐れながらも、槐を物のように扱っていた。斎郎は、それが気に食わないからこそ、父に反抗的な姿勢を見せ続けていた。だが――

 

「結局、俺も親父達と同じだった……」


 斎郎は、封を外して適当な手近にあった小皿へと、毒を流し入れていく。いつもであれば、慎重にまじないが掛かったものを使うだろうか。しかし、今の斎郎はそんな事を考える気もない様子で、小皿の中を覗くだけ。


「鬼が飲めば毒となる……か」


 斎郎の手が、皿の淵に触れた。そうして、ゆっくりと持ち上げて――一気に喉へと流し込んだ。



「――甘い」


 花の馨しさにも似た香りが鼻腔を抜けて、喉へ流るるはこの世のものとは思えない甘露な味。


「槐……俺はまだ、鬼ではないのか?」


 斎郎の言葉は、薄闇の中へと溶けて消えていった。



 幕章 思い出 弐 了

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