第八話
ユキナの怒りはまだ治りきってはいなかった。だが、それでも目前で
――ああ、いっそ、このまま女を里の外にでも放り出してしまおうか
――他人の亭主に手を出したのだもの、石ぐらい投げられてもおかしくないわよね
小さな里でも密通は重罪だ。晒し者にされるか、郷を追い出されるか。うっすらと浮かんだ思考に、誰が同意するでもなくユキナは女の髪を掴もうとした――だが。
女に触れようとしたユキナの手が、ぴたりと止まった。女から奇妙な気配に、ぞわりと肌が粟立つ。ユキナは何事かと逡巡するも、口からは漏れる息が白い事に気がつく。同時に、床に触れる足から伝わったのは冷気。冬の冷えた空気よりも、更に部屋は寒々と冷えていき、ユキナの身体はガタガタと震え始めていた。
――何よ……いったい……
考えを巡らせるようと目線を彷徨わせるも、それまで部屋を照らしていた蝋燭の灯りがふっと消えた。部屋は暗闇に飲み込まれ、ユキナはヒュッと冷気で喉を斬られたように息が詰まった。それまで何とも思っていなかった闇が、恐ろしい。いや、それ以上に目の前にいる女――暗闇に呑まれて黒い影へと変じてしまったものが、何故だか恐ろしい。
下手に女から目が離せなくなっていたが――
ユキナは思わず立ち上がり、後ずさる。格子の出口はすぐそこで、逃げるのは容易い。だのに、ユキナの足はそれ以上は動かなかった。
「…………ど……して」
しじまに、か細い女の声が響く。弱々しいのに、暗闇に呑まれそうになっているユキナの不安を煽って仕方がない。
「私と……一緒にいるって……言ったのに」
女の――黒い影が再び動いた。ずるずると着物を引き摺る音。這いつくばる様にユキナへと近づいていて、黒い影はあっさりとユキナに触れた。その冷たさと言ったら。人の手の形のはずなのに、雪よりも、氷よりも冷たい。それがまたユキナの肝を冷やして、寒いと感じた筈の背筋には冷や汗が伝う。冷気がユキナの身体を這うようで、ユキナは思わず腰を抜かして、そのままぺたんと座り込んでしまった。ペタペタとユキナを確認する様に触れる影。それが両肩を抑える様にしてユキナの眼前で動きを止めた。
「うそつき」
刹那。闇よりも黒い憎悪が、格子の中を包み込んだ。
◇
斎郎は飛び起きた。まだ夜も明けない暗闇の中。冬の明け方特有の寒さの中に混じるのは、何かが身体を這いずり回る様な異様な空気だ。ずるずると蠢く気配が例え気の所為だとしても、とても眠ってなどいられなかった。残っていた酔いなど消え去って、目覚めの感覚を取り戻すよりも早く、斎郎は開かずの間がある方へと視線を向けていた。
――何かが――槐に何かあった
斎郎の手は無意識に胸元を探った。しかしあるはずの物が無い事に気がついて、斎郎の血の気は一斉に引いた。まずい。そう感じたと同時に、斎郎の足は一目散に開かずの間へと向かった。わざわざ鍵を盗み何かを企てるのが誰であれ、槐に何かあったらと考えると生きた心地がしなかったのだ。
内側から閂はかかっておらず、扉は薄らと隙間が開いたまま。早く、早くと何かが頭の中で叫ぶ。斎郎は扉を弾け飛ばす勢いで押入ると、直様に槐がいる部屋へと目を向けて、座敷牢の部屋の中へと駆け込んだ。
だがそこに、槐の姿は無かった。ずんといつも以上に重く冷えた空気に身を震わせ、斎郎の焦る双眸は槐を探す。格子の扉は開いたまま、確実に誰かが入ったのだと一目で判る。が、肝心の誰かも、槐もいない。
しかし、ふつと気がつく。誰もいないのでは無い。夜の気配よりも黒い何かが結界を埋めてしまっているのだ。
「槐……?」
斎郎は嫌な予感が拭えず、焦っている筈なのに、足が躊躇する。何か、何かが――。
「槐……」
斎郎がもう一度、名を呼ぶと黒いものが蠢いた。段々と薄らいでいき、いつもの薄闇が姿を表す。そこには――――
「ユキナ⁉︎」
腹を抱える様にして倒れる、ユキナの姿だった。
「おい! 何があった⁉︎」
斎郎は慌てて近づくも、小さく呻いてそれ以上反応しない。肩を揺らすも同じで、徐々に顔色からも血の気が引いていくばかり。呼吸は浅く、これは危ういと感じた斎郎はそのままユキナを抱えようとした。が――
「……斎郎」
ユキナが転がる足元で、か細い女の声がして手が止まった。
――ああ、槐は無事だった
斎郎は安堵の心地と共に声の方へと目を向けた。しかし、思いもよらぬものが目に入って、斎郎の身体は硬直してしまった。
「槐?」
暗闇の中にある黒い影。人の形をしている様で、輪郭が判然としない。けれどもそれが槐だという確信が斎郎にはあった。
「お前……なんで……⁉︎」
「斎郎……」
戸惑い慌てる斎郎とは対照的に、槐は静かに泣いていた。暗く澱んだ姿でも、黒い涙が頬を伝い流れていく。槐の異形の姿が斎郎の目には、はっきりと映っていた。
異常だ。場が混乱する中で、槐の異常性だけが際立って、斎郎の手はユキナを抱えたまま身体が下がる。
「斎郎、待って……」
「槐、ユキナの呼吸が浅い。このままだと死んじまうかもしれない。だから――」
「お腹の子……斎郎の子なの?」
斎郎は槐から目を逸らして、ユキナを外へと連れて行こうとした矢先だった。斎郎の額から汗が伝って、ユキナが何かしらを話してしまったのだと悟る。斎郎は唇を噛み締め、今は時間もないのもあった。
斎郎は一言。「そうだ」と返した。
「その女の人が、斎郎と結婚した人だって――自分が斎郎と夫婦なんだって――」
「ああ、本当だ」
斎郎はユキナを抱き上げると、逃げるように背を向けた。槐が涙ぐみながら「待って」と訴える声に耳も貸さず、急足で格子を越える。
「後で必ず来るから」
少しずつ色味を取り戻して、元の姿に戻りながらも涙を流し続ける槐。その姿を見ないふりして、斎郎は暗闇の中へと姿を消して行った。
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