第七話

 その日は、里で会合が行われていた。年が明け、里の男衆だけの宴会が催され、静かな里もこの日ばかりは賑やかしい。新酒が振る舞われるのもあって、酒を呑んで、呑まれてと。宴会は日付を超えても続いた。

 勿論、杜氏を継いだ斎郎も蔵人としての面目もあって、出席しないわけにはいかなかった。蔵人も里人も、まだ跡を継いだばかりの若造だからと、飲んでも飲んでも酒を注いでくる。あまり酒に強くない事を知っている芳雀ほうじゃくすらも、斎郎に飲ませて――宴会がお開きになる頃には、斎郎の足が覚束ない程までに酩酊していた。


「おーい、斎郎。お開きだぞー」


 酔っ払いの――気分の良い声で芳雀が床に転がる斎郎に声をかけると、斎郎は唸りながらも起き上がる。よろよろと歩き始めたが、目は据わって千鳥足。いつすっころでもおかしくは無い姿に、芳雀は隣に並んで肩を貸していた。


「飲み直しはできなだそうだなぁ」


 ははは、と酔っ払いが笑う。芳雀にはまだ余裕があり、斎郎とは違って意識は明瞭としていた。


「……帰る」

「帰ると女房に嫌味を言われるぞー」


 またも笑いながら芳雀は返した。そんな陽気な芳雀に反して、斎郎は酔いが覚めた様にずんと重暗い声でボソリと呟く。

 

「言わない……話をしない」


 芳雀は横目で斎郎を見やるが、未だ酩酊状態の男がずんと沈んだ表情をしている。芳雀は何事もなかったかのように目線を戻すと、「そうか」と言った。

 

「ま、今度愚痴でも聞いてやるよ」


 ユキナとの結婚は、四ツ家の都合だと誰もが知っている。ユキナの気の強い性格も鑑みれば、夫婦生活はうまくいっていないのだろうと予想できたのかもしれない。芳雀はそのまま斎郎を肩に担いだまま宴会場を後にする。斎郎を家まで送り届けると、芳雀もまた自分の家へと帰って行った。



 ◇



 今が真夜中と言えるのか、それとも朝に近いのか。明け方の前というのは、いつも以上に静かで、いつも以上に暗く感じる。不気味な家は、より一層重苦しい空気にでも包まれて、物怪もののけか鬼でも姿を表しそうだった。


 その日、ユキナは夜が怖いと思わなかった。寒々しい筈の家の空気も一切合切気にならない。


 重くなった――大きくなった腹を抱えて、酒に呑まれて深く眠る男を見下ろす。ユキナの目は死人のように冷たく、彷徨う幽鬼の如く憎悪を宿していた。その双眸が、男――斎郎の首を映す。視線の先には、皮紐が二つ。ユキナに迷いはなかった。重い腹に苦労しながらも斎郎の横に屈んで、胸元を探ると皮紐の先からは、あっさりと鍵が二つ姿を表す。


 ――ああ、これが


 義母はこっそりと教えた開かずの間への行き方。

 

『あの向こうに行くには鍵がいる。けれども、鍵はいつも斎郎が管理している。首から皮紐で下げているから、無断で入る事はできないよ』


 ユキナが斎郎から鍵を盗むなどとは考えてもいなかったのだろう。義母の言葉通りに、鍵を見つけたユキナの憎悪は深まるばかり。大事そうに首から提げているのもまた、腹立たしかった。


 ――こんなものが、自身の子よりも大切なのか


 ユキナの憎悪を膨らませながら、開かずの間へと向かって行った。


 ◇


 ガチャリ――と、鍵が鳴いた。ぎいと音を立てて、扉はゆっくりと開いて、ユキナを招く。

 暗い。寒々しい家など比べ物にならない程に、悍ましい黒い闇がユキナを出迎える。ユキナは手燭台を暗闇に向けるも、躊躇だけはなかった。不思議と恐怖が湧かなかったのだ。ユキナは無心で暗闇へと身を投じて、足は止まらない。廊下は長く、部屋はいくつかある。だが、ユキナは一つの部屋の前でぴたりと足を止めた。


 ――ああ、ここだ


 ユキナには確信があった。その確信が何かと問われると、答える事はできなかったのだが――心当たりがあるように目線を下に向けて腹を摩った。


「あなたも知りたいわよね」


 ポツリと一つ呟いて、ユキナは襖を開いた。それと、同時だった。


「誰?」


 澄んだ女の声だった。部屋の奥――暗闇の底から、はっきりと響くうら若い声。ユキナは手燭台の灯りをそちらへと向けて、部屋の奥を照らす。橙色の灯りの中、ゆらりと影が揺れて、その姿にユキナは目を見開いた。


 格子――座敷牢の向こう側には、今まで里で見た事もない女が一人、丁寧な姿で座っていた。不安げな面持ちを抱えてはいるが、女の容姿はこの世のものと思えない程に美しい。灯りが照らす黒髪はきめ細やかに輝いて、白磁のように白い肌に良く映える。今の惑い怯える姿も、どこか妖艶で、ユキナはあまりの自分との差に息が詰まっていた。だが――


「あなたは誰? 斎郎の知り合い?」


 女は不安げながらも見知った男の名前を口にした、その瞬間。ユキナの心がざわりと波だった。ユキナはゆっくりと格子に近づいて、その目はけたたましいまでに怨嗟が宿る。女も、それがわかったのだろう。狭い、四畳半の座敷牢で少しずつ後ずさった。


「あなたも斎郎と仕事をしている人? どうして、こんな時間に? 斎郎は来ないの?」


 斎郎が女の元へと訪れる事は当然。名前を呼ぶ事も当然。見慣れぬ女に疑問を投げかける女の声は、怯えながらも一人の男が来るのを待ち焦がれているように何度と「斎郎は」と繰り返す。それが、殊更にユキナの腹の底を抉って、怨嗟が膨れ上がった。

 格子の目前まで辿り着いて、もう一つの鍵の意味を知る。座敷牢の出入り口の扉をギョロリとした目が捉え、何を言うでもなく扉の鍵穴へと、もう一つのそれを差し込んでいた。


 そうして怨嗟を宿した身体で、ユキナは格子の向こう側へと辿り着く。重たい腹の所為で、ユキナの足取りはのそりと重い。しかし、その重み以上に怒りと恨みが染み込んでいるような足取りで、ゆっくり、ゆっくりと女へと近づく。その姿は最早般若のそれに近かったのかもしれない。座敷牢の奥底で怯える女を据えた目が捉えて追い詰めていた。


「ねえ、あなたこそ誰なの? 開かずの間こんなところで何をしているの?」


 宿る怨嗟を放つ声色は、いつものユキナのそれとは違う。憎悪を宿したのろいのように地を這って、女を絡め取ろうとしていた。


「わ……わたしは……」


 女の声は震えて、追い詰められた壁際で大事そうに何かを抱えていた。ユキナは目ざとくもそれに気が付く。女へと一気に詰め寄ると、強引に奪い取った。


「待って、返して……!」


 弱々しく縋ろうとする女を軽く突き飛ばすと、ユキナはまじまじと手中に入ったものへと目を落とした。


「……これ、あの時の」


 ユキナの手の上には、見覚えがある藤の絵が彫られただけの黄楊つげの飾り櫛。ユキナは突き飛ばした女へと這い寄ると櫛を突き出すように前に出して言った。


「ねえ、これ。誰にもらったの?」


 女は戸惑いながらも答える。


「さ……斎郎が、くれたの」

「なんて言われたの?」

「ずっと一緒にいようって、斎郎が言ってくれたの……夫婦になろうって」


 女は何も知らないような口ぶりで、ユキナへと言葉を返す。櫛を返してくれと請うばかりで、女はユキナが何者かも尋ねない。ユキナは、あっさり櫛を返す素振りを見せて女へと差し出した。女は受け取ろうとおずおずと手を前に出す。もう少しで、女の手がユキナが差し出すそれに届くという所だった。――が、ユキナは女の手が届かぬうちに、床へと櫛を落としていた。


「そうなの。でも、あなた、何も知らないのね」

「……どういう事?」

「だって、私が斎郎の妻だもの――斎郎と結婚したのは私。このお腹を見ても理解できないの?」


 そう言って、ユキナは這いずっていた姿勢を正して、臨月を迎えた腹を摩る。大きな――一つの命が宿る腹へと女は目線をやるが、その顔は混乱めいて生白い肌はどんどんと青褪めていく。


「このお腹にいるのは斎郎との子。あなたは、斎郎の何なの?」

「私……わたしは……」


 女は答えられなかった。


「あなた、斎郎に利用されていたのね。こんな所に閉じ込められて、女として利用されて、そんな安物の櫛一つで絆されて――惨めねぇ」


 ユキナは、女が人でも、そうでなくともどうでも良かった。ただ、妻である自分を差し置いて、身重の女を差し置いて、愛情を享受し続ける女の存在が許せなかった。これからもきっと、女は斎郎の心を奪い続ける。そう思うとユキナの心根はドロドロと黒い闇の中に沈んでいく。ユキナの湾曲する顔、怨嗟を吐き続ける口は止まらず、女を追い詰め続けた。


「斎郎はこれからもあなたを大事に大事に、此処に閉じ込め続ける。こんな薄寒い暗闇で。けれども、外では――別の女を抱いているのよ」


 女の顔は重く沈んでいく。


「あなたは愛されてなんていない。斎郎にとって、都合が良かっただけ」


 ユキナの言葉に、女の顔は身体を縮こめて、耳を塞いでしまった。

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