第五話
斎郎が杜氏を継いで一年も経った頃、斎郎の父が亡くなった。
斎郎と槐の距離は変わらないままのようで、しかしどこか距離が出来たような。身を寄せ合う事はあっても、ただ寂しさを紛らわせているだけのような。互いに本音を口にしない、ぎくしゃくとして、しかしどちらも何も言わないままの時間。互いに
里で生きると決めた時にはそうなるであろうと予測はあった。四ツ家の古老達に囲まれて、ユキナと結婚するように指示が下った斎郎は、既に受け入れる為の心の整理がついていた。無論、槐に何一つ言えないままではあったが。
◇
四ツ家の家では女児が生まれた場合の殆どが、妙齢になると里の外に嫁に出される。主に、取引をしている家であったり、縁を繋ぐためであったり、外で暮らす親族などと。ユキナも例外なく、姉や従姉妹と同じように外に出される予定だった。しかし、外は里で暮らしてきた者にとっては未知の領域にも等しい。いつか外に出るという期待と不安を抱えて育つのだが、そんな折にユキナの元に届いたのは外に嫁いだ姉からの手紙だった。姉は不出来という訳ではなかった。器量は美しく、手先も器用で何かと手際も良かった。だのに、嫁ぎ先の家で姑に嫌がらせをされて、家に帰りたいと文面の中で嘆いているのだ。たったこれだけ。これだけでユキナに外への嫌悪感を植え付けるには十分だった。ユキナにとって、外とは恐ろしいものとして認識されるようになってしまったのだ。
四ツ家に生まれというだけで誰もが言う事を聞いてくれる。誰もユキナに意地悪などしない。面倒な事も他人に押し付けてしまえば良い。里は安全で、楽な暮らしが選べる。外が恐ろしくなったユキナは逃げる事ばかり考えて、杜氏の後継である斎郎と結婚したいと願い出るようになった。
勿論、両親とて軽々とは頷けない。四ツ家は元々外から来た民で、里の中には下手に親族を増やしたくはないのだ。しかし、ユキナは
何よりも、斎郎はまだ若い。四ツ家が蔵人の仕事に介入するにももってこいで、ある意味では好機とも言えた。
そんな、思惑ばかりが捩じ込まれた婚姻は寒々として、凍えた冬のように冷えきっていた。
斎郎を選んだのはユキナ自身だ。里の中では年頃が近ければ殆ど顔見知りと言っても良い。斎郎の気弱さも、優しさも、ユキナは幼い頃から良く見てきたのだ。顔はほどほどで、何かと言う通りに動いてくれそうな。そんな思惑が大きかっただろう。それでいて、杜氏の跡取りとあれば……。
だが、どれだけユキナが立場で選んだとて、女としてのあり方はやはりそれなりに夫に愛されたいとは考えていた。斎郎がどこぞの女にうつつを抜かしていたとしても、結婚すれば一緒に暮らせば夫婦になるのだと思い込んでいたのだ。四ツ家の手前、無碍に扱うような真似はしないだろうと。
そんなユキナの期待は脆くも崩れ去った。斎郎は忙しいと言って家には仕事の時以外は寄り付かず、夜も自室か開かずの間に入り浸って出てこない。義母となった斎郎の母も、あれは
結局、夫婦らしい事といえば祝言と初夜ぐらいで、まともな家族の形もないまま時間だけが過ぎていった。
そうして、祝言から三ヶ月の時が過ぎた頃。ユキナの妊娠が発覚した。つわりがなかった為、通常よりも発覚が遅れたが、義母である斎郎の母も実家である四ツ家も喜び、ユキナも漸く一安心する事ができた。これで、斎郎も自分を見てくれるだろうと。
けれども、斎郎は何一つ変わらなかった。
斎郎は変わらず仕事ばかりで、自身の子が出来たと知っても目もくれなかったのだ。
流石にユキナを不憫に思ったのか、それまであまり斎郎に干渉しなかった義母も斎郎に強いく言ったが、それも意味を成さない。それならばと、ユキナは実家を頼って斎郎を
ただ、うまくやれ、と。更には、下手に杜氏と四ツ家の関係が割れているなどと勘ぐられないように、臨月まで里帰りする事も許されなくなってしまった。
歯痒くもユキナは自分の家になった場所へ帰るしかない。家と言っても、家族とは程遠い他人と同居のような場所でしかないのがユキナには辛かった。
斎郎は家に帰ると、家というものに無関心だった。食事こそ家で摂ったが家で寛ぐ事は殆ど無い。年老いてきた母へ話かける事はあっても、ユキナへは皆無だ。勿論、それはユキナが話しかけたとしても。
「ねえ、斎郎」
名を呼べば、斎郎は煩わしいとでも言いたげな目を向ける。それがまた、ユキナの心を
「なんだよ」
ひやりとした返答と眼差しが振り返る。斎郎が、ユキナの名前を口にしないのはいつもの事だった。妻どころか、同居人としてすら見ていない声音は嫌悪よりも無関心だろう。
「……もう少し、一緒にいて欲しいのよ。お腹の子の事もあるし」
ユキナは家族としての真っ当な言い分を口にしたつもりだった。腹の中の子は、斎郎の子でもある。それだけでも関心を向けて欲しいのだと言ったつもりだった。だが――
「……出来る限り、滋養のいいもんをもらってくる。欲しいもんがあったら言ってくれ。……そういやそろそろ連雀商人が来る頃だな、程度さえ守ってくれたら好きに買えば良い」
「そうじゃなくて――」
もっと夫婦らしく過ごしたい。大きな家で、お腹の子が無事産まれるかどうかの不安だ。実家は無闇矢鱈に帰る事もできない。せめて、自分と過ごす時間を割いて欲しい。そんな本心が今にも溢れそうだった。けれども、ユキナは冷めた斎郎の目を見て、言葉を続ける事ができなかった。
「用がないなら、もう寝るぞ」
ユキナの訴えようとしている事に気づいていないのか。言葉が続かないユキナを置き去りしにして、斎郎はそのまま自室へと消えていった。
ユキナは見送るしかなかった。冷めて、何の感情も籠っていない――そんな目はあまりにも冷淡。だが、そんな目を向けられるのは、思えば夫婦になる以前からだった。
――そうだ、あの藤の櫛を買った時も……
ユキナは偶々、斎郎が女物の櫛を買っているところに出会した事があった。相手のことを思い浮かべているのか、今までに見た事もない笑みを浮かべて殊更嬉しそう。明らかに誰かへの贈り物を選んでいた。あれは誰かを好いた顔だ。そんな確信から、ユキナは自身の腹積りから外れようとしている斎郎が気に食わず、藤の櫛をくれと言ったのだ。
その時の疎んじた視線は今思い出しても気分が良い物ではない。今も昔も、斎郎がユキナへと向ける感情は冷え切って、何も変わらないのだと思い知らされるだけだ。
そうして、ふつと気が付く。
――そう言えば、結局……あの藤の櫛は誰に?
藤の絵が彫られただけの、地味な
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