第三話

 いつもは、妙な気配に落ち着かない藤色――けれども今日は他所ごとに気取られて、藤花のささめきなぞ耳にも入らなかった。


 これほどまでに、斎郎が心苦しいと感じる日があっただろうか。

 藤色の景色の中、何をするでもなく互いにゴロリと寝そべって舞い落ちる花弁を見つめて――たったそれだけの事に、満足そうな笑顔を見せる槐。その姿に、ただただ、心が居たたまれない。斎郎は時折、槐の横顔を盗み見ては、何一つ打ち明けられないまま時間が過ぎていった。

 

 時間がどれほど経ったのか。いつも明るく、変化の無い藤花の夢は時間の経過が判らない。夢から醒めないのであれば、きっと朝ではない。そんな程度の認識のまま、斎郎はうだうだと巡る思考にまともに会話出来ずにいる。

 そんな斎郎を見兼ねてか、槐がころりと身体を斎郎へと向けた。不安気な斎郎とは対照的に、藤花の夢の中では化生の存在と呼ぶに相応しい妖艶な姿にも見える。そんな槐は現世とは変わらぬ声音で、囁くように呟いた。


「何かあった? 斎郎、また何かで悩んでる」


 判りやすいねと付け足して、槐は淡く笑う。比較しているのは、恐らく槐の母だ。槐の微笑みからして、優しい愛情深い女性だったのだろうかと連想する。けれども、父が語る槐の母は、また別の姿。化生の存在らしい声音で威厳ある様相。相反する言葉が重なって、槐の母の虚像は歪んでしまっていた。


 槐の母を化生の存在と言い切って、今もその娘に対して壁を作る父。脅されていたと怯えて、斎郎に娘を押し付けたと悔いる父。けれども決して、里を見捨てるなと釘を刺した父。

 父は父なりに斎郎を心配し、罪悪感を抱えながらも、里の今後を見据えていた。斎郎に何一つ伝えなかったのも、下手な思考を刷り込まない為。その父の目論み通り――父の気弱さから生まれた強かな考えの思い通りに、今の斎郎は動いている。それを判った上で、斎郎は反抗できるかと言えば――――やはり出来なかった。


「なあ、槐」

「ん?」


 斎郎も身体を槐へと転げて、互いに向き合う。そっと槐の手を取ると、また槐の顔が綻んだ。ああ、やっぱりこの笑顔が好きだ。そう感じている筈なのに、今日ばかりは嬉しさよりも胸の痛みが勝って、斎郎は顔を歪ませないように必死だった。痛みを押さえてやっと、斎郎は言うべき言葉を絞り出した。


「槐は――槐の母さんが、血を採られていた事を覚えているか?」


 その途端、槐の顔からすうっと笑顔が消えた。それと同時に、藤花のささめきに消えてしまいそうな声で、「覚えているよ」と溢す。表情は消え、転げていた上体を起こした槐は斎郎から遠ざかるように身体も目も、他所へと逸らしていた。


「いつも、男の人達がお母さんの血を採りにきてた。毎日ではなかったけれど……腕を斬られて痛そうだった。お母さんは人じゃなかったけれど、それでもやっぱり痛いんだって……でも、逃げられないから、仕方がないんだって」


 冷めた声音で語る槐の言葉に、斎郎もまた記憶が蘇る。まだ、槐と出会うより以前。家には、何人と蔵人が尋ねてくる事があった。顔ぶれは大体決まって、父とかしら代師だいしと……皆一様に顔は神妙。何か大事があるのだろうかと尋ねようにも、そのまま開かずの間へと入っていってしまう。今思えばあれは――斎郎は、今になって気がつくもだからと言って何が変わるわけでも無かった。

 

 斎郎は身体を起こして、槐へと手を伸ばそうとしたが手は宙に浮いたまま止まってしまった。遠くを見つめたまま苦しげに顔を歪めた槐が、如何に今まで苦しんでいたかを物語る。永遠にも近い時を閉じ込められ続けている事実に今も苦しんでいるのに、慰める言葉が見つからない。慰められないだけではない。今から斎郎は、槐にその苦痛を与える立場に成らねばならないのだ。

 

 何故、槐に逃げようと言えないのか。槐と時を過ごせば過ごすほど、意思が濁る。いっそ心がぐずぐずに腐って、何もわからなくなれば良いのに。そんな考えが浮かぶ自身の気弱さに吐き気がして、それ以上に胸が張り裂けそうなまでに痛み出す。斎郎は言葉が出てこなかった。


 言わなければ。


 しかし、斎郎が何を言うよりも早く、何処を見ていたとも知れない槐の顔がゆっくりと動いて、双眸に斎郎を捉えていた。


「斎郎、私もお母さんと同じなの?」


 藤花のささめきが消え、しじまの中で槐の声だけが鳴る。表情の消えた、けれども妖の如く美しい女の表情が斎郎の返答を待っていた。勝ちあった視線は決して逃してはくれないだろう。斎郎は声を戦慄わななかせながらも答えた。


「……里が生きていく為には、お前の血が必要なんだ」


 苦悶に満ちた顔を晒したまま、斎郎は前に手を突く。斎郎は恥じた。地面に頭を擦り付けてでも槐に願い出よう。何をしてでも槐を納得させようと考える腹の底で、槐に嫌われたくはないと考える心根の醜い自分が居る。約束も、信頼も何もかも投げ打って。里を守るためだと自己保身に走り、槐に嫌われないようにと言葉を選ぶ自分が、醜悪に思えてならなかった。


 矜持の一つも持ち合わせていないような姿を晒して、あとはどう言えば槐に嫌われないかを思い悩んで、頭はどんどんと地面に近づいていく――がそれもすぐに終わった。

 ふつと頬に感じるのは、ほっそりとして繊細な手の感触。いつもと変わらぬ槐の手だ。鈍った頭がそうと理解しても、斎郎は下手に顔を上げられなかった。槐が何を思い、手の温もりが何を込めているのか。嫌な思考しか浮かべない卑しい腹積りが、斎郎ではなく槐を悪にしようとする。槐の半身が化生であるよに、今まさにその気配がするような気がして――――


「斎郎……斎郎の為になるなら良いよ」


 ポツリと落ちた言葉に、斎郎は恐る恐る目線を持ち上げた。そこにはいつもと変わらぬ姿で微笑む槐が、斎郎を見下ろしていた。


「斎郎が傍に居てくれのなら、大丈夫」


 槐の声音は穏やかで、斎郎は安堵する。


「槐、ごめん……ごめんな……」


 斎郎は必死に――槐に縋るように、謝罪を述べた。それは、本心からくるものだった。気弱さかくる都合の良い言葉でも無かった。けれども、安堵の心地からでた言葉である事も事実。


 心苦しさが薄らいだ斎郎は、ざわざわと騒ぎ出した藤花のささめきに気がつく事もなく――。

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