幕間 思い出 弐

第一話

 父が倒れた。

 それは斎郎が槐に婚姻を申し込んで、半年も経った頃の事だった。


 斎郎は槐の下へと変わらず通って、同じ時間を過ごし続けていた。藤の夢は苦手だが、それでも槐が望めば共に過ごした。槐は人ではない。そんな部分も受け入れなければ。斎郎はいつか慣れると言い聞かせながら槐と過ごし続けた。それ以外は、藤の夢を除けば斎郎にとってもこの上ない時間だったと言っても過言ではなかっただろう。そんな折に、父の凶報だ。父へと槐との婚姻の話をしようと頃合いを見計らっていたのもあり、斎郎は愕然とするばかりだった。




「随分と長い事、無理をしていたようだ」


 他所から呼んだ町医者は、斎郎に現実を突きつけた。「過労と心労が重なったのだろう」と、蓄えた髭を撫でる老人は事も無げに言う。


 あれほど威厳があった人物だったのに。父は萎むどころか、眼窩が落ち窪むほどに痩せた顔を晒して弱々しく床に伏していた。ちらつき始めた死の影。先細った父の先行きが今にも消えそうなともしびに変じて初めて、斎郎の両肩にはずしりと様々な重みがのしかかった。父が倒れた瞬間に、父が背負っていたもの全てが斎郎の重みになったのだ。


 しかし何故。斎郎は父が何を思い詰めていたかが未だ理解できていなかった。酒造は順調で、蔵人とも里人とも関係は良好である。だのに、四ツ家に呼び出される度に父は萎んでいく。一体、四ツ家と何を話していたのか。四ツ家に何を言われていたのか。斎郎は病床の父を追い込む行為と知りつつも、もう何も問わない訳にはいかなかった。


 もう以前のように向き合う事は無い。父の威厳を感じる事もない。それは斎郎が杜氏という肩書きを継ぐ事は決定したも同然と言うのもあっただろうか。抗うことも出来ず、決心には程遠い心持ちのまま、自分の先行きが決まった斎郎はどこか頼りない。それは自分の気弱さをよく知る斎郎自身も自覚があるだろう。汗ばむ手を握りしめながら父の側で座る姿は背筋が伸びきらず不安気。時折、父へと寄越す目線は父の言葉には不安を拭い去る何かがあるのではと淡い期待をしているのか。まるで、親という生き物への根拠の無い信頼を寄せる子供のようだった。


 そんな斎郎を見透かすかのように、父はそっと瞼を開いた。父も何かしら思う事があったのか。布団に伏せながらも虚ろな目を斎郎に向けて、それは斎郎を憂慮する目にも、罵る目にも見える。しかしそれ以上の動きのない父は細々と口を開いた。


「お前は、幼い頃からの声が


 弱々しい父の声は思い出を語るように穏やかだった。


「だから、お前が事は何となしに俺もわかっていたんだ」


 想像していたものとは違う言葉に、斎郎は戸惑いながらも問い返す。

 

「選ばれるって……?」

「槐だ。先代は交渉の相手と考えていたようだが、当代はまた考えが違うんだろう」


 投げやりではない父の言葉は、斎郎の心臓を針の先のようにちくちくと突き刺す。


「先代は、完全な化生で気難しかった。下手な事をしようとすればどうなるかと、何度とこちらが脅されていた程だ」


 斎郎とて、槐が人でない事は理解している。けれども父の言動は、まるで手強い妖でも相手取っていたようだった。その妖を今も恐れて、決して軽視はしていないと、口で、目で語る。


「親父、槐は――」

「“えんじゅ”とは、我々が住むこの山の精霊しょうりょう。“神便鬼毒酒じんべんきどくしゅ”の内の毒を司る存在だ。と言っても、当代は半分は人の筈だ」

「毒……」

「鬼をも殺す毒。その昔、酒呑童子しゅてんどうじという名の鬼を殺す為に使われたと云われている」


 父は疲れたのか、「ふう」と息を吐く。ちらりと斎郎を瞳に映すが、もう視線は下へと向いて、父が目を向けたことにすら気づかず呆然とする。その様子を一瞥すると父は視線を天井へと向けた。


「斎郎、あの日――お前が槐の元へと初めて対面した日。俺は、お前が逃げ帰ってくる事を願っていた」

「……え?」


 斎郎にとって聞き逃せない話だった。思わず声を上げると同時に目線も上がる。


「先代が消える少し前に、娘に無体を働くのであれば相応の災いを起こすと言い残していた。お陰で、母が消えて泣き喚く子供一人に俺たちは手も足も出なかった。何を言っても泣き止まず、かといって無理に触れようとすれば暴れる。それで他の連中と話し合ってな。同じ年頃の子供であれば、少しは治るんじゃないか……とな。だが、誰も子供を差し出す真似なんぞしたくはない。けれども誰かがやらにゃならなかった……だから、開かずの間は鍵が空いていたんだ。鍵を開けておけば中に入っていくだろうと思って――な」


 虚な父の目が、斎郎のそれと勝ちあった。詫びているような、何も考えていないような。虚無の目を前にして、斎郎に反論は無かった。ただ、得心だけが芽生えて、ああそうかと一人頷く。


 ――開かずの間の向こうの声が、聞こえるわけがないのか


 斎郎は、幼い頃から槐の声と母と思しき声が聞こえていた。楽しそうに会話する親子の声。ずっと、妖怪を家の奥で飼っているのだと思っていたあの頃から、斎郎は槐と何かしらの縁があったのだ。


「……だけど、父親がいるだろ……槐の年頃は、俺と同じぐらいだ。俺の前に父親でも駄目だったのか?」


 半分が人であるというのならば、年齢を鑑みて里の誰かが父である筈だ。自分よりも、余程縁があるようにも思えた。


「父親の記録はあるが、死んだとだけだ。斎郎、あれを人の常識で考えるな。当代は俺が知る限りはずっと子供だった。それこそ俺が子供の頃から……爺様の頃も子供の姿だったと聞いている。母親が消えた影響なのか、漸く成長を始めたんだ」


 父の声が、槐が人でない事を主張する。斎郎が長い時間を共有し続けて、いつか共に過ごせると考えていた期待が、少しずつ、少しずつ崩れていくようだった。

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