第八話 春の目覚め
大岩の裂け目から流れる水。その水は、恐らく唯の人であれば、何の変哲も無い水である。
酒造に使う水の殆どは、里の井戸から汲まれたものだ。しかし、春の酒だけは大岩の裂け目まで汲みに行く。これもまた、御役目として蔵人の仕事。というのも、大岩の目前まで行ける事が出来るのが蔵人だけなのである。
石清水の里で祀る
そんな神域にも等しい場所から汲んだ水。その神気の濃さは、槐の口へと運ぶその時すらもじわりと感じた。槐の血を封じるのと同じ小瓶を、青白く染まった口元へと近づける。そうすると、木栓を外した瞬間から感じる神気に槐も気がついたのか、僅かだが瞼が開いて、こくり、こくりと飲み込んだ。
そうしてあっさりと全てを飲み干した槐は、再び目を閉じて眠りについた。しかし今度は、苦しげな様子もなく安らかで、斎郎は胸を撫で下ろす。これで、大丈夫な筈だ。漠然とした安心感からか、重苦しかった肩からの一つ降りた気がした。これで心置きなく、春の酒造りに取り掛かれるのだと。
◆
甘い。
瞼を開くよりも前に、鼻先を掠めた香りに槐は安堵した。藤の香りは母と過ごした記憶そのもの。藤花のそれも、母を真似して子守唄でも唄っているように、微風の音色でささめき合う。夢の中の、更に奥深い静寂の中で眠っていたような。そんな目覚めには、藤花達のささめきは、殊更に心地良く感じた。だが、ふつふつと浮上する寝覚めと共に別の心地良さも感じて、槐は離すまいと擦り寄った。そうして感じる、もう一つの匂い。
――雨のにおい……
今にも雨が降り出しそうな。湿り気を帯びた空気が匂い立つような。甘い匂いに混じったそれが、誰であるかを思い出させる。朦朧としていた意識が、ゆるゆると目覚め始めた瞬間でもあった。
槐の瞼がそっと開いて、藤紫で塗りたくられた世界が映り込む。槐が長年見慣れたその景色は、母と過ごした時間も合わせるともう
今、常春の景色の中。槐の視界の端にでは異物にも等しい
背には叢雲の息遣いが規則正しく続いて、そこで漸く自分が叢雲の腕を枕にしているのだと気づく。どうりで叢雲の鱗が近くにあるわけだと納得して、槐は鱗を弄り続けた。眠る前に感じていた身体の不調は、完全に消えてもう横になっている必要はない。けれども、この温もりはこの上なく離れ難い。
――眠っている間、ずっと側にいてくれたのかしら
叢雲の片腕を枕に。背中には体温。もう一方の腕も槐の腹の辺りにまわされているものだから、腕の重みもあり叢雲の存在が直に伝わる。
藤花がひらひらと舞い落ちるように、槐の口からは「はあ」と深い息が零れた。誰かが側にいるだけでも満足。
浅はかな心。槐は自身が如何に単純なのかを知っている。たったそれだけでも槐の心は満足して、それ以上を望まない。いや、望んではいるが口には出さないが正しいか。
――ずっと、此処でこのまま……
平和で、何も無い、不変な幸せが続けば良いのに。何も無い事が何よりも幸せ。槐は束の間の幸福を噛み締めるように、もう一度瞼を閉じた。が――
「槐……」
腹部に回された腕に力が籠り、槐の身体が引き寄せられて、叢雲の身体とひしとくっつく。温かいと感じていた体温が更に近く、叢雲の息遣いが耳に降り掛かる。
「身体は大丈夫か?」
「うん……なんとも無い。叢雲が何かしたの?」
「
今度は枕にしていた腕までもが槐の身体を抱きしめて、ぎゅうぎゅうと締め付ける。もう隙間なぞどこにも無いのでは。槐は完全に身を任せるままにして、ただ「そう」と呟いた。しかしそれは、どこか無関心に聞こえる。叢雲もそう感じたのか。はたまた、別の理由か。そっと槐を締め付けていた温もりを解いて、起き上がるように促した。
「叢雲?」
藤花の花弁が舞い落ちる。その向こうで叢雲は今までに無い真摯な瞳で槐を見据えて、そっと口を開いた。
「槐、お前は何を望む」
槐は言葉に詰まった。
何、とは――何だろうか。
叢雲の強い眼差しが槐の心を締め上げるようで、槐は叢雲の目が見れなくなった。嫌な心地だ。せっかく、良い気分だったのに。何か、という曖昧な言葉を前にして、槐は何かを返そうにも言葉は喉に詰まって出てこない。
――だって、望んだとしても……
槐はぞわぞわと腹の底に何かが蠢いているような感覚から抜け出せないまま、もう一度叢雲に目を戻す。その時にはもう、叢雲の目は諦めにも似た……憐れみを浮かべて、槐の身体を引き寄せていた。
「もう少し、眠っていたほうが良い。今は、
諦念を宿したその身へと、槐は言われるがまま頷いて身を預けた。
――だって、裏切られたら苦しいだけじゃない
叢雲が裏切らない保証はどこにもない。だったら、何も期待しない方が楽。槐はそっと、瞼を閉じる。もう一度、良い夢が見れるようにと願いながら。
第四幕 思惑 了
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