第七話 悪夢
この世の憎悪を暗闇で煮詰めたような、底無し沼に溺れたような夢を見た気がした。
ほんの薄く開いた瞼の先が矢鱈と眩しく感じて、けれどもそれが日光と知った時の芳雀の安堵と言ったら。御仏の御前にでもあったかのような心地と言っても過言ではなかっただろう。段々と視界は広がり、思考は目覚る。今もまだ自身が槐の横に腰を据えたままだと思い出すと、漸く身体の感覚が戻り始めた。
ぽたりと額から流れ出た汗が首筋にまで伝う。そこで、芳雀は己の身体中が汗に塗れて、冷え切っているのだと気付く。肌寒くはなかった筈なのに。そんな季節ではなかったはずなのに。凍えた身体が、記憶の底まで冷やして、身に染みた恐怖を呼び覚ませ芳雀は身震いをした。
しかし、ふつと気がつく。
――俺は、一体何に恐れを抱いているんだ?
確かに何かがあったはず。しかし恐怖の大元を辿ろうにも、何に恐れ慄いたのか。ぽっかり穴でも開いたかのように思い出せない。
茫然自失にも近かっただろう。芳雀自身、霧中に彷徨っているような心地で、現世の感覚が戻っても未だ地に足がついた感覚は無かった。
「…………おい……おい、芳雀‼︎」
それは、何度目の呼びかけだったのか。芳雀の意識が戻った事に気がついた斎郎が、芳雀の肩を必死に揺らしているところだった。肩に張り付いた着物の布地が今もひやりとしたままで、斎郎の手が被さると今度は生温くて気持ちが悪い。その感覚が、何か思い出しそうで――しかし、同時に頭がずきりと痛む。芳雀はあまりの痛みに目を閉じて頭を抱え込んでしまった。
「とりあえず、部屋を出よう」
斎郎は史郎へと部屋を用意するように言って、芳雀はされるがままに肩に担がれる。格子を出て、鍵が閉まるその瞬間、芳雀の目には未だ眠りについたままの槐が双眸に映った。しかし、槐の姿を映せど、先程の腹の底から戦慄が湧いてくるような恐怖は無い。
――俺は、何をしていたんだ?
ぷっつりと途切れてしまった記憶。芳雀が憔悴した意識の中を彷徨えば彷徨う程に霧は深くなるばかり。霧は深く、重く、芳雀に纏わりついて――そのまま、芳雀の意識は途切れた。
◇
それから、芳雀が目を覚ますまでに一日の時間を要した。不思議と、目覚めた芳雀は夢から舞い戻った時のような気怠げな姿もなく、「いやぁ、寝ちまった」と朗々とした様子で言い放つ。まだ、布団の上で上体だけを起こした状態だが、それでも昨日に比べれば顔色も悪くはない。そんな芳雀に斎郎は安心したが、その一方で槐の症状は至って平行線のままで、不安は拭えてはいない状況。それでも、芳雀の様子で心無しか、救いがあるのではと期待もあった。
「驚かすなよ。お前、戻った後はとんでもねぇ顔していたぞ」
「悪い、悪い。あんときは色々記憶が混乱しちまってな」
眠りにつく前の動揺した姿を思えば芳雀は至って正常と言えた。空元気という訳ではなさそうだと斎郎は胸を撫で下ろす。これならば、話もできるだろうか。斎郎は様子見がてらに軽い話でもと思った。が、それよりも先に芳雀が「それで、槐の事なんだが」、と話の口火を切っていた。
「中にいた奴は問題ない。もう、出て行った」
「え?」
斎郎の口からは思わず間抜けな声が飛び出た。重く考えていただけに、事があっさりと治ってしまって、拍子抜けしたのだ。
「粗方の神気を喰らって満足したみたいだ。だが、槐の回復には時間がかかる」
斎郎は、ああやはりと顔を苦渋に染める。しかし、芳雀は大丈夫だと言って、今も余裕ある表情のままだった。
「できる限り、濃い神気を含んだ――大岩の水を飲ませてやれば、回復も早まるだろう」
「……それで、良いのか?」
「ああ、今は神気が減りすぎているだけだ。まあ、多少は回復を待たないとならないがな」
あまりに呆気なさすぎる。それでは神気を喰らった輩は何者でどこに行ってしまったというのか。斎郎の中で疑問が残るも、今は時間が無かった。
「水は用意できる。どの道、大岩へは水を汲みに行かねばならん」
「ああ、そんな
春というには少し遅く、しかし夏はまだまだ先。青葉の若々しい色に満ちた山里に、藤花の香りが際立つ。その香りはざわざわと木々を揺らす風に流されて、斎郎と芳雀が話をする部屋にまで届いて鼻先を突いてみせた。
石清水の酒は、二つ。新米を使った冬の酒と、古米と藤を使った花酵母の春の酒。
特に、春の酒は
大岩の清水そのものと、その影響を受けて育った藤の花。そして、神気宿す槐の存在。その三つがあって初めて、鬼をも殺す酒が出来上がるのだ。
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