第六話 不可侵 三

 神気の流れで、僅かばかりだが出口らしき糸口は掴めた。恐らくは背後程度の感覚的に捉えた手探りにも等しい情報だが、今ならば戻る事も可能だろう。だが、芳雀は身の危険を感じながらも前へ進んだ。決して軽率でもなければ、逃げ腰でも、油断でもない。

  

 それまで培った経験がそうさせるのか、足並みは嫌に慎重だった。一歩、前に進むだけで降り積もった藤の花弁がカサカサと音を立てる。上から垂れ下がる藤の花房が前を遮り、視界は不明瞭と言っても良い。しかもだ、肌は常に――花房が、花弁が身体に触れる度に小さな蟲の顎でも喰らいついたかのようにひりりと痛みがある。薄寒い静寂のそこで、芳雀の気配はどうやっても消し去る事など不可能。だからこそ、芳雀は不可思議だった。


 ――何故、槐は何もしてこない


 藤の感触は敵意。神気の濃さで、槐らしき気配も掴めている。だのに、それ以上の何かが無い。


 ――やはり、何かに毒されているのか


 此処は夢ではない。夢であれば、精神への干渉であって大きな影響は無い。所詮、他人の意識など覗こうとしたところで窓の外から垣間を盗み見る程度なのだ。けれどもこれが異界となると厄介。そもそも、芳雀の魂も異界へと無理矢理連れ込まれてしまっている状態だ。しかも神気で生成された世。魂魄の隠れ家にも等しく、当人の意識が何処にいるとも知れないし、他人の領域を侵しているとなれば怒りを買ってもおかしくはないのだ。

 この状況にして、何も無いのであれば――やはり事態は異常である。その原因を突き止めねば、長く『槐』の毒に頼って生業を立ててきた石清水の里にとって大きな影響どころでは済まない。追い出されはしたが、芳雀にとって石清水の里は生まれ故郷。故郷の行末への気掛かりが、芳雀を突き動かしていた。


 ――俺が手に負える相手かどうかが問題だが……

 

 槐の本体が眠りについているからといって、根本である意識までそうとは限らない。抵抗や、殺伐とした何かが何一つとしてない。芳雀に対して僅かな敵意こそあるが、異界はほとんど凪いでいると言っても良いだろう。


 槐は完全に巣食われてしまっているのか。それとも――――


 芳雀が疑念と焦燥を抱えたまま、どれほど進んだ頃か。芳雀の足は僅かな異変に気が付いて、ぴたりと止まった。

 藤の花房に身を隠し、隙間から覗いた先。視界に映り込んだのは、黒。槐の長い黒髪のようで、また違う。濡羽色のような長い黒髪に、遠目からでもはっきりと判る金の瞳。そして何よりも目立つのは、肌のところどころにある鱗。体格から見て、男の姿を模しているが実体は別だろう。


 ――あれが原因か……


 そうとは判っても芳雀は下手に動けなかった。

 槐の神気は感じるが、もう一つ別に神気を感じるのだ。それが、槐の身体に巣喰い神気を奪った。そう考えれば道理が通る。なのだが、どうにも違和感が拭えなかった。


 ――ありゃ、何してる


 男は槐に対して何かをする様子が無い。傍で――膝の上に槐の頭を乗せて、眠る槐を愛おしそうに見つめる。更には眠りを促すように髪を梳ってもいた。一見では何か悪さをするような存在には見えないのだ。

 異様な気配はするが、邪気はない。どう動くべきか。考えを巡らせながえら、更に目を凝らしたその時だった。


 鱗の男の頭がゆっくりと持ち上がり、金の瞳が芳雀を鋭く射抜いたのだ。息が詰まるかと思うほどの冷たい眼差しが芳雀を貫いて、鱗の男の口が三日月を描く。まるで、芳雀を待っていたと言わんばかり。鱗の男の思惑の意中にあると悟った芳雀の背も肝も、一瞬で凍えていた。

 

 ――まずい


 芳雀は怖気を感じた瞬間、身を翻し――走った。逃げろ、逃げろと己の中の何かが警鐘を鳴らす。目が勝ち合った瞬間に敵わない存在だと悟ってしまったのだ。そうなるともう、形振なりふりなど構ってはいられない。いくら神気を扱える術を知っているとは言え、それはあくまで外に漏れ出た神気の話だ。所詮、石清水はお溢れや残滓ざんしを掻き集めるのが得意と言われたらそれまでの事。神気そのものを放つ者を相手取るなど、人間である芳雀には到底無理な話なのだ。芳雀の手の内には先ほど見つけた出口への道筋は今も掴んだまま。そこへ向かって、芳雀は走るだけだった。


 だが、芳雀の怖気を読み取ったかのように、それまで凪いでいた異界が騒がしくなった。ざわざわと藤の花房が揺れて、くすくすと迷い込んだ一匹の鼠を嘲笑うかのよう。それが一層芳雀を焦らせた。その上、先ほどよりも花房が増えて視界を奪われ、行手を遮られ、花弁の足場は不安定な沼のように足をとられる。悪戯に鼠を痛ぶっているような。迷い込んだ玩具を逃さないとでも言っているような。芳雀の脳裏には悍ましい想像ばかり浮かんで、ますます焦った。

 

 最初に踏み込んだその一歩。その瞬間には危険と感じていたのだ。もう、その時には出るべきだった。判断を誤ったと、芳雀は思わざるを得なかった。

 走れば走る程、息が苦しくなる。今は肉体などという概念は無いはずなのに身体が重い。それに合わせて、掴んで居たはずの出口までの道筋の感覚が、段々と薄くなっている気がした。

 

 ――だめだ、消えるな!


 もう、脳裏は恐怖で一色。藁にもすがる思いで、出口への糸口ばかりに気取られていた――その時。芳雀の右足を何かが這った。冷たいに脚を絡め取られ、芳雀の足がもつれる。そのまま、勢い余って芳雀の身体は花弁覆う地面の上へと投げ出されていた。足に絡まった何かを取り払おうと転げたまま自身の脚を見る。そこには、脚に絡みついたまま、ちろちろと舌を出した黒い蛇。芳雀は急ぐばかりで最も大事な事を見逃していたのだ。ぞわり――と、肌が泡立つような藤の異界に似つかわしくない悍ましい気配。気配が濃くなればなるほどに黒蛇はギリリと芳雀の脚を締め付け、どんよりと暗い目を向ける。痛みを堪えつつ、なんとかして黒蛇を引き剥がそうとした――が、今いま、芳雀が逃げてきた方角から藤色の中に際立つ黒い姿が、ゆらゆらと迫っていた。


異界ここに入ってこられる人間とは如何様なものかと思ったが、なるほど少なからず神気を持っていたか」


 金の瞳が先ほどよりも忌まわしく、それこそ先ほどまで無かった悪意を秘めているように仄暗く。それが、邪気などといった生易しいものとは思えず、芳雀は何とかして逃げようと踠いた。しかし、逃げようとすればするほど、脚の肉に絡みついた蛇が締め付け食い込んでいく。芳雀の喉からは呻き声が漏れ出るだけだった。


「何用だ」


 ざくり、ざくりと響く足音が段々と近づいて、痛み悶える芳雀の耳にもしっかりと届く。その音が、芳雀の頭の真横で止まった事も。

 芳雀の頭の上に何かが乗った。それが、男の手だと気が付いた時には、芳雀の意識は暗闇の底へと沈んでいた。

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