第五話 不可侵 二

 格子の向こう側へと入るのは、これで何度目だっただろうか。芳雀ほうじゃくは古い記憶の経験が苦々しく脳裏に浮かぶような気もして、落ち着かない腹の底を撫でるようにして目線を下げる。


「こりゃぁ……」


 芳雀は渋面を残したまま、眠る女――槐の横へと腰を据える。『槐』という存在自体、普段から人ならざる者と相見えている芳雀にとっても異質な存在だった。

 一見では人。しかし、目を凝らせば人ならざる気配。見鬼けんき(※妖などを見る目)を用いたならば、妖ではない何かである。それが死んだように眠って、警戒もないのがまた異質に見えた。そう今は、完全に人に寄った存在だと芳雀は確信している。弱りきって眠りの底にいる原因が、首筋に刻まれた傷によるものだろうとも容易に想像もついた。しかしそれを理解したとして、芳雀はその先に進むのに躊躇があった。禍々しい何かが、畏れでも吐き散らすかのようにして芳雀を威嚇している。そんな気がしてならなかったのだ。

 だからか、芳雀が一度は傷に触れようとした手は、首筋に触れる一歩前の中空で止まってしまった。


「当たりだ、何か入っているな」


 そう、何か入っている。けれど、それ以上は読めない。


 ――『槐』が人間ではないからか?


 芳雀は一度手を引っ込めて、違和感を探るように今一度槐の体を見やる。ただ、そうやって眺めるだけでは、生白い肌をした女が眠っているだけで違和感が消えてしまうのだから、なんとも度し難い。


「五日前に血を採った後、目を離した後にはもう眠っていた。それから一度として、目を覚ましていない」


 耳鳴りのようなしじまの中、落ち着いた斎郎の声が届いて、芳雀の目は自然とそちらへと向かう。格子のこちら側、入り口近くで史郎と共に待機していた斎郎に先程のような気落ちした様子は無い。代わりに、責任に追われてばかりで疲れた様子を隠した杜氏の姿で斎郎は真っ直ぐに芳雀を見守っていた。

 それは一種の期待にも思えて、芳雀は溜息を吐く。

 

「上手くいくかは保証できんぞ」

「手が打てるかどうかを考えたい。一片でも知れたら良だ」


 芳雀は口の端を吊り上げて笑った。だがそれも直ぐに凪いで、顔は真剣そのものへと変じる。


「それでは、始めさせて頂く」


 芳雀は返事を待たず、大きく両の手を勢いよく広げると同時に袖を払う。そうして、また勢いをつけて――ぱん、と。小気味よく響いた拍手かしわでの音で、空気が澄んだ。辺りは完全に静まり返って――もう、芳雀の耳には何一つ音は届いていなかった。合わせた手は形を変え、上下に平たく重ねる。そのまま芳雀は槐の額に触れ、指先を押し当てたと同時。

 芳雀に闇が訪れた。


 

 ◆


 

 今、自分が立っているのか、倒れているのか。

 それとも浮遊しているのか。


 それすらも掴みきれない感覚のまま、芳雀は瞼を押し上げようと必死だった。そうでもしないと、気を抜いた瞬間に――


 ――喰われる……

 

 身体中を蟲が這いずり回るように肌はひりつき、身体の端々から喰われているのではないか。惑乱とした心が創り出した幻覚か、はたまた夢の影響か。一身に浴びる視線が芳雀を焦らせた。

 

 芳雀は見る事には長けている。自身でも――また芳雀を良く知る者から見ても、祓う才に関しても抜きん出ていた。だからと言って、芳雀は勇足いさみあしで危地やもしれない場所に飛び込むような無謀は持ち合わせていない無い。初手としての様子見。それだけのつもりだった。自身の夢と他人の夢。その境界に立って、ほんの少し覗くだけだと。そうやって外側から覗いて、敵地を視察。入りやすそうな所から、コソコソと侵入するつもりだったのだ。

 ところが、だ。芳雀の思惑は外れて完全に敵地へと引き摺り込まれてしまっていた。そうなると、容易に帰る事も出来ない。何せ、入ってきたはずの境界は既に曖昧になって、何処にあるかも判然としなかった。

 ただ、芳雀は現状の感覚に覚えだけはあった。


 ――こりゃ、神気か……


 人の身では触れてはならないとされる領分がある。それは、凡そ神と呼ばれるものが該当するが、芳雀はその一端に触れているのだと確信した。だから、それに気付くと同時に暁光と考えた。


 ――だな


 自身は確かに人の身ではあるが、石清水の血でもある。それに感謝した事が今以上にあるだろうか、と。


 石清水の民は、神気を扱い閉じこめる事に長けている。神気の流れを掴み、一点に留め封ずる事が出来るのだ。これはもう、血に刻まれた特質に近かった。それを幼い頃より鍛えた者を蔵人と呼ぶ。芳雀もまた、過去はその一人。更に言えば、祓う術を身につけているのだから不安は他よりも少ない筈である。何よりも槐の神気自体は慣れ親しんだも同然。ほんの僅かでも糸口を掴めば、芳雀の呼吸は自然と落ち着いた。ああ、両足が地に足を付いている。それを感じただけで、芳雀がどれほど安堵した事か。


 ふう、と呼吸が零れ落ちて漸く開いた芳雀の瞼。その先、最初に映り込んだんは紫だった。 

 輪郭はぼんやりとして、今ひとつ夢の形の判別が出来ない。だがそれよりも先に、芳雀の鼻腔には甘い香りが入り込んで、芳雀は紫の正体が何かを察した。薄く開いた瞼の向こう。まだ、視界は霞む。だから、見えたのは色だけだった。薄い――紫。

 

 ――藤……か……?


 藤は、石清水の里で造られる酒の原料の一つでもある。それこそ、酒蔵では当然のように――幼い頃から嗅ぎ慣れたそれに眉を顰めて、朧げだった視界は段々と輪郭がはっきりとし始めた。


 どこまでも広がる藤色。藤紫。空は花の群生が、地は降り積もった花弁が覆い尽くして、他の色は見当たらないのではないのかと思わせる。幻惑的で、幻想的。現世との違いをまざまざと見せつけられて、芳雀は言葉を失った。息を飲み込むだけで、甘い香りが口の中に入り込んで、肺を満たしていく。

 芳雀は思わず口を塞いで、足を踏み入れた事を後悔してしまった。


 ――此処は、夢ではない

 

 無音で、誰の気配もない。

 けれども、そこら中から視線を感じる。

 

 斎郎は中を見てくれと言った。大抵は、記憶や夢や思考を指す言葉である。槐の夢の話は過去に斎郎より耳にした事があった。この世のどの景色よりも美しいと感じるのに、同時に恐ろしいと感じるのだと。芳雀はその正体を見た気がした。見鬼だからこそ見えたのかもしれない。


 ――此処は、異界だ


 戻らなければ。肌は未だ、ヒリついたままだった。

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