第二話 片鱗 二
「何があった」
格子の外で、待ち構えていた二人。そのうちの一人――
血を採った後、というのは空気が軽い。まだこれから他にも仕事がつかえているが、それでも大役でも終わったような心地になる。しかし今日は違う、杜氏に頭、そうして麹造りの責任者でもある
もう直、酵母造りが始まる。それに合わせた準備もあり、何かと忙しい。
「杜氏、俺は先に蔵に行って……」
「俺達は後で行くと。それだけ伝えたら、お前こっちに戻ってこい」
杜氏らしく振る舞う斎郎の声に、史郎は背筋が伸びた。
◇
三役と共に肩を並べると思うと、史郎は父と過ごす時間とは違って緊張感に苛まれた。けれども身体はガチガチに固まって――というわけでもなく、正座してさらりと置かれた手の様子は、一端の蔵人の姿。もう二十一歳と若すぎるという年齢でもなく、落ち着いたまま背筋はしっかりと伸びていた。
そんな史郎の内心など、三役には伝わっているかどうか。斎郎だけは、史郎の心中を察しているかも知れないが、今はその素振りもない。
「噛み傷って……あそこは結界だ。何が入ったって言うんだ」
「あれはあくまで槐を閉じ込める結界だ。小さな獣であれば入り込む余地がある」
そうして同じく側で見てはいない代師が
「だがあれは、鼠や栗鼠なんて大きさじゃなかった。あれは――」
斎郎は口しながら固まる。自分の首筋に触れて、あれはどれくらいの大きさだっただろうかと考えている様子で、しかし何か違和感に気づいたように眉根を寄せた。
「人の大きさ……だろうか」
斎郎のその言葉で、史郎ははたと気づいたように、記憶が鮮明になった。あれは、小さな獣の大きさ程度の噛み傷ではなく――。史郎は思わず口を挟んでいた。
「……杜氏、あれは人に似た何かという可能性は」
史郎の言葉に目が集まる。そうして斎郎だけが、うんと頷いていた。
「鬼か、はたまた別の何か……可能性はあるな」
史郎の考えに斎郎が同意して、噛み傷を視認していない二人は焦った。特に、斎郎の側で何かと見てきたであろう
「ま……待て待て、杜氏と史郎が見たというなら信じよう。だが、鬼と仮定して何処から入ったというんだ」
史郎は見たままの事実しか言えず、押し黙る。「開かずの間へ妖が入ったとして結界へは?」そればかりは不可解極まりないのだ。あの結界は、ある一定以上の力ある存在を跳ね除けてしまうと言われている。もし、それを打ち破れる存在がいたのであれば、槐は噛み傷どころでは済まないだろう。
そうやって史郎が悶々とする中、斎郎もまた考えを巡らせているようだった。しかし、考えあぐねいているというよりは、確信はないが何か方法を思いついているようではあった。しかし、変なところで気弱な癖が出てしまったのだろうか。押し黙ったようになかなか口を開かない。
「ん、ああ……槐は見た目が人に似通っているだけの化生だ」
斎郎は続けた。
「俺は昔――若かった頃に、あいつの夢に招かれた事がある。とても、夢や幻とは思えねぇ程に鮮明で、不気味な場所だった」
「招かれたって……夢にか? それは幻術か何かをかけられていたんじゃねぇのか?」
「槐ははっきりと作ったと言っていた。母親も同じような力を持っていたと」
「それじゃあ何か。夢の中に何かが入り込んで、悪さしていると?」
「可能性だ。原因が何にせよ、俺たちに門外漢だ。里の外に頼るしかねぇ」
蔵人達は零れ落ちた神気を読み取り、閉じ込める力には長けているが覗く事には不得手である。現状、槐の内側に問題があるのであれば、人の医者に見せても無意味。そればかりは、この場に居る誰しもが納得した顔をして見せていた。しかし問題もある。
「古老たちは槐をあまり見せたがらんぞ」
「俺が説得する。槐が衰弱しているとでも言えば、慌てふためくだろうよ」
斎郎から気弱な側面が抜けて、冗談混じえた姿は珍しく、
三役の話がまとまりかけて、しかし里の外とは誰を頼るのだろうかと史郎は思案する。毒酒を直接買いに来る客はいるから、それらだろうか。そんな事を浮かべていると――
「しかし、夢ってのは何だ?」
代師はそれだけはどうにも不可思議に思ったのか、食い込んできた。斎郎は、古い思い出にでも浸っているような。それでいて何処か苦々しく目を伏せてぼそりと言った。
「ああ、藤の夢だ。槐は、この世とは思えないような藤の夢に棲んでいるんだ」
たったそれだけ。代師は漸く納得したような顔を見せて、深い息を吐く。
「藤か……それは意味がありそうだ」
石清水で造られる酒。
その酵母もまた、石清水の里で採れたものを使用している。
石清水は今も昔も花酵母。それも、藤の花を使った――藤の花の甘い香り立つ、藤の酒を造り続けているのだ。
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