第三幕 思惑

第一話 片鱗 一

 まじないが込められた小刀は、鞘から抜いた瞬間、まるで空気を斬ったかのように部屋が澄み渡る。ほんの些細で、ほんの一瞬の事。それがわかるのは、蔵人の血の中でも数は少ない。淀み切った空気が澄んで、清浄なる力により『槐』へと傷をつける事が許される。


 史郎は座敷牢の中――槐を前にして手中の小刀に気を込めた。正確には伝わる術により、まじないを目覚めさせたと言えるだろうか。

 傍目、ただの小刀。されど、ただの小刀と言うにはあまりにも重い。責務の話ではなく、単純に目方めかたがずしりと手に負荷をかけるのだ。そのおかげか――いやこれは、責務もあるだろう。史郎の手の内にはじわりと汗が滲んだ。


 小刀に秘められた術式は古く、未だ読み解くには至らない。あくまでも、神が残したであろう術を目覚めさせ、神威しんい履行りこうの許しを得るだけである。それだけでも随分な生気を吸い取られ、気を抜けば史郎の意識はころりと闇へ落ちるだろう。

 

 そうして慎重に、槐の腕へと刃を添える。史郎は最初こそ躊躇した。どう見ても槐は人。姿だけでなく、仕草も、動きも、呼吸する姿も。血を採られる事に対して、怯えて抵抗する姿も。何もかもが人。しかし、斎郎の顔に泥を塗るわけにもいかず、これが自分の請け負った役目なのだと言い聞かせた。慣れとは恐ろしいもので、今はもう、躊躇い無く史郎の心は術への集中ばかりに意識が向けられる。

 

 史郎は一つ息を吐いて、刃をそっと動かした。刃を肉へ押し当て引くというよりは、線を書く。呪いが伝わった刃先には、それだけで十分なのだ。生白い腕には赤い線が描かれて、ぷくりと赤い雫が露のように膨らむ。それを、同じく呪いを込めた小瓶で流れ出た血を受け止める。これもまた、重要な事だろう。小瓶は封じの器。術を施したものでなければ、器として成り得ないのだ。

 

 そうやって、槐から溢れた毒を小瓶へと封じる。これもまた、一喜一憂では身に付かぬ。下手をすれば小瓶に封じ損ねた毒が、術者を喰らおうとするのだ。


 だから皆一様に慎重。見守る者すらも何かあればすぐに駆けつける事が出来るようにと身構え、格子の向こうの一挙一動に注視を続ける。張り詰めた緊張感と強張る顔つき。誰も彼もが杞憂な時間を過ごした。


 そんな部屋の様子でも、槐だけは何事もなく静観した目で事が終わるのを待っていた。既に二十年余りの時の中で、何度と経験したからなのだろう。痛みを感じながらも、嫌だと言いながらも余裕があった。それに加えて、ここ数日は嫌だと言う事もなくなった。無駄な事を一切辞めて何を考えているとも知れない目は、虚無を捉えて何も見ようとはしない。


 今日もまた、何事もなく終わる。史郎は全てがひと段落して緊張の糸が切れたのか、小さく「ふう」と息を吐いた。


 それが終いの合図だったとでも言うように、皆の顔からも力が抜ける。さて今日も順調だった。早々に帰ろう。そんな様子の矢先――――槐の身体がぐらりと揺れた。

 史郎は初め、鞘に刃を納めているところで、視界の端で何かが動いた程度にしか感じなかった。それが槐と気づいたのは、もう少しばかり目線を上げてから。元より顔は青白い。だがそれとは別に、表情は酷く疲れているようにも見えた。

 呼吸は浅く、身体の芯がぐらついて――史郎にはそれが妙だと感じた。今までの経験上、槐は疲れというものを知らない。嫌がりはするが、淡々とこなして、睨みつける元気もあるのだ。史郎は父――斎郎へと目線を流す。すると、斎郎も同じように奇妙なものを見たと言う顔をして、怪訝に眉を寄せていた。


「槐、どうした」


 斎郎の慮る声は、言葉を間違え怒らせた時の声ともまた違って史郎は惑う。しかし、斎郎が槐を支えようとそっと手を伸ばせば、槐が浅く息を吐きながらも「触らないで」と拒否をする。いつもよりも苦しげに、喉から拒絶を絞り出して。


「お前、この前からおかしいぞ。何かあるんじゃ無いのか?」


 斎郎は事もなげに続ける。それは杜氏として、ではなく槐自身を心底心配しているようだった。けれども、槐にそれが伝わる様子もなく――


「触らないで」


 槐は二度目の拒絶の言葉を吐いて、抱きしめるように身体を丸めていく。言葉も、態度も、全てが斎郎を拒絶して、もう斎郎に入る余地は無いとすら思わせる。

 これは一度引くしかない。史郎は、槐の様子を上から下まで眺めていた――その時、ふつと史郎の目に何かが留まった。


 ――なんだ?


 槐の長い髪が流れて露わになった首筋に、獣にでも噛まれたかと見紛うような傷痕。


 ――獣……? それにしては何か違和感が……


 白い皮膚にはよく目立つ。まだ真新しいのか皮膚は赤々と腫れ上がっていた。


「杜氏」


 史郎は務めて慎重に父を呼ぶ。その声に、斎郎も気がついた。ぬるりと顔を上げて、だが目には憂いを帯びる。

 そんな斎郎に、史郎はくいと顎で槐の首筋を指し示した。そこで漸く斎郎も目を覚ましたようにして、じとりとした目を落とす。

 一つ、二つと間を置いて、斎郎が次に目線を史郎に寄越したときには、斎郎の目には憂い以外の――焦燥にも似た何かが宿っていた。

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