第九話

 ふつりと、夢が途切れる感覚があった。

 苦い思い出のような、今も忘れられない幻想のような。斎郎は若き日々を思い出すと同時に、心苦しさも感じて胸をおさえた。幼き頃に軋んだ心は今も治っていない。それどころかもう一生治らない傷が残って、ずきずきと痛みが続いているような感覚さえあった。


 斎郎は一人、布団の上で上体を起こして、何気なく目に入った障子窓が薄明かりに照らされていると気がつく。もう、朝日が登り始めた頃合い。春と夏の間と言える季節の空気は清々しく、目覚めには丁度良い。なのに、朝の訪れは斎郎を陰鬱な気分から抜け出せはしなかった。


 ――ああ、もう朝か


 そんな虚な思考と共に苦悶を浮かべながらも、朝を受け入れた身体は従順に起き上がる。微かに漂い始めた朝食の香りに誘われるように、斎郎は身支度を始めていた。


 ◇


 下女が用意した朝食の席ついて、史郎は向かい合った父――斎郎の顔色を伺った。このところ、槐は大人しく問題が無い為、何事もなかったかのように日々は淡々と進む。

 懸念していた斎郎を嫌がる素振りも、誰かに触れられても機微の一つも無い。何事も無さすぎて、寧ろ不気味と感じるまでに、日々は穏やかそのものだった。


 ――あれほど、誰かに触れられるのを嫌がっていた筈なのに……


 史郎は、膳を前に向かい合わせで座る父を見やる。まだ四十手前とあって、年老いたと言うには少々早い。しかし、苦労が多い杜氏という役目故か、疲れの色が抜けずに人よりも衰えて見える。今も、茶碗を手に箸を持ったまま固まる姿が、老人の一歩手前の仕草にも見えて史郎は溜息が出た。これでは、心労で立てなくなる日も近いのではないだろうか。

 史郎は茶碗の中の米をかっ食らって、ガシャんと音を立てて茶碗を置いた。膳の上の食器がぶつかって、よく響いたのだろう。斎郎がはっと顔を上げて、漸く動きを見せた。


「親父、今日は休めよ」

「いや、そういうわけにはいかん。大人しくなったとはいえ、槐が何もしないとは限らない。それに他にも――」


 不安に苛まれた顔は歪んで、またも黙り込んでしまった。何を危惧しているのか、斎郎は史郎に何も教えてはくれない。史郎はまたも溜息を吐く。斎郎の悪い癖――一人で抱え込んで解決しようとする癖をよく知っているのもあって、どうにも心配なのだ。


 ――ままならねえなぁ……


 史郎は斎郎から視線を外して、そこからは決して見ない場所へと双眸を向けた。

 現在居る奥座敷の更に奥には、開かずの間が存在する。鍵は一つだけ。その鍵も斎郎が肌身離さず持ち歩き、決して誰かに触れさせる事も無い。そう、いつも大事に持ち歩いて、決して誰にも肩代わりをさせないのだ。


 史郎はふと思う事がある。

 斎郎は、槐に固執しているような。そんな気があるのだ。血を採る役目など、下っ端にやらせれば良い。間違いが起こったのなら、隠蔽してしまえば良い。槐にいつか殺されるとぼやきながらも、むざむざ殺されに赴くのは何故だろうか。それとも、殺されると口走りながらも、殺されないかもしれないと言う相反する考えでもあるような。それでは、まるで――


 ――親父は、槐を試してるみてぇじゃねぇか


 史郎は、ぽんと浮かんだ思想を振り払うように、頭を振った。余計な考えは手元を狂わせるだけだ。

 槐の腕に傷をつけるには、まじないが必要になる。史郎は父を手伝う為に何年と修行してやっと任された仕事だった。仕事を疎かにはできない。最後に残っていた白湯はもう冷めて、しかし気にする事なくそれを一気に流し込む。ぬるま湯で気は晴れないが、今の気分には丁度良かったかもしれない。そうしてもう一度斎郎へと目を向けると、再び箸の動きが止まったままの父親がいて史郎は小さく息を吐いて苦笑した。


「親父、もう直に仕事の時間になっちまう。とっとと食っちまえよ」

「ん……あぁ、もうそんな時間か」


 草臥れた声の父の姿を前にして、史郎は自分んが並べた考えにそっと蓋をした。


 幕章 思い出 壱 了

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