第八話
頷いた槐の頬から、一筋の涙が伝った。ただただ静かに。
槐の頬は更に赤みが増しているような気もした。けれども行灯の明かりの所為かもしれない。昼間ならばもう少しはっきり見えたかもしれない。斎郎の目ではぼんやりとした感覚でしか掴めず、夜を疎んで少しばかり後悔をする。が、その考えは、斎郎には自分の感情を確信させるものだった。
――ああ、そうか。俺は……
得心した心から溢れ出た感情は、言葉へと変じてポロリと唇の隙間から溢れ落ちた。
「……好きだな」
しかし、槐には違う意味に取られてしまったようで。
「それって……泣き顔がって事?」
「うん、泣き顔も好きだ」
斎郎は悪戯に笑って、言葉を続けた。
「泣いた顔も、喜んだ顔も、笑った顔も、どれも好きだ」
斎郎は言い切ると、そのまま槐の頬へと手を伸ばした。ほんのりと紅を帯びた槐の頬。まだ湿り気を帯びて、しかし指で数度撫でるとそれも消える。ゆっくりと、だが着実に熱を帯びて、槐の頬はますます赤く染まっていく。
槐の僅かな動揺する目の動き、戸惑う指先の仕草。いつまでも飽きる事のないそれを続けていたかったが――槐の手がそれを邪魔した。
もう駄目、とでも言われるのだろうか。そっと捕まえられた斎郎の手。槐は両の手で捕まえて、宝物でも抱きすくめるように胸の前で包み込んだ。
握られた手が熱を帯びる。槐の熱が、斎郎へと移ったのではないか。火照る身体がそんな考えを浮かばせて、解れていた筈の斎郎の緊張がぐんと増した。
そこへ、槐が鈴を転がすような声音でポツリと呟いた。
「斎郎……斎郎にだけ、私の大事なもの、見せてあげる」
少女でありながら、微かに女を思わせる艶を漂わせ、情を孕んだ瞳が斎郎を射抜く。
「大事なものって?」
槐の持ち物は全て斎郎から贈ったものばかりだ。それ以外に“槐のもの”と呼べるものは無に等しい。斎郎は首を傾げながらも槐の返事を待った。
「目を瞑って」
夜闇に鈴が鳴る。リンと澄んだ夜の空気に響いた音は果たして幻聴なのか。それでも斎郎は、鈴音に耳を澄ませて瞼を閉じる。訪れた暗闇の中で、槐の手の温もりと吐息だけを取り残したような感覚に身を預け、さて何が始まるのだろうと胸が躍った。
だが。
斎郎に訪れたのは、違和感だった。
殆ど閉ざされているにも等しい座敷牢の空気が変わったのだ。閉ざされ、行灯の熱で澱んだ部屋が一転、澄み切った空の下にでも出たような。それと同時、漂う空気が運んだものがあった。
――甘い……香り……
確認するようにすんと鼻を鳴らして、今まで確かに無かったはずの匂いに斎郎は動揺する。一体、何処から――そんな考えが浮かぶと同時に、槐の声が耳元で響いた気がした。
「斎郎、もう目を開けて良いよ」
槐のはしゃぐ声に、斎郎は恐る恐る目を開いた。その瞬間、目に飛び込んだ景色に斎郎は目を見開いた。
「……藤?」
そこは、座敷牢などではなかった。
辺りは一面、藤紫一色。藤花は天を覆い尽くし、舞い落ちる花弁は地面を埋めて、先を辿ろうにも、垂れ下がる藤花が視界を隠した。甘い匂いが藤花のそれと気づいて、斎郎は思わず藤花に触れた。
「本物?」
花弁の感触、蔓の硬さ、花の匂い、その全てが現実そのものとして存在していたのだ。
「斎郎、」
驚きを隠せない斎郎の視界の端で、槐が斎郎を真似た手つきで藤に触れる。それが何とも無邪気で、槐の顔が座敷牢にいる時よりも輝いて見えた。しかし同時にはたと気付く。
――違う、ここは明るいんだ
常に薄暗い座敷牢とは違い、何処から入り込んだ光か、槐だけではなく藤花の全てが何処までも見通せるように明るいのだ。
「槐、これって……」
「此処はね、お母さんが私に見せてくれたものなの」
「え?」
「お母さんの夢を真似て、創ったの」
斎郎は槐が何をいっているのかが理解できなかった。今自分が何処にいるのかすらも不確かで、足元すらも覚束なくなりそうだと言うのに。
けれども槐は何一つ惑いなど見せなかった。此処にいるのが当然とでも言うように斎郎の手を取って、あっちに行こうと案内しようとする。
「本当はずっと斎郎と此処に来たかったの」
斎郎の手を取って槐は歩き続けた。道すがら、あの藤花はお喋りだとか、あの藤花は歌が上手いのだとか、あの藤花は……それぞれ指を指して話してくれるのだが、斎郎には全て同じ藤花に見えてしまう。どれも同じ、何の変哲も無い藤花達。
――俺、いつの間にか寝ちまったのかな……
景色だけでなく、槐が楽しそうな表情も幻夢の中の一つの出来事のような気もして、段々と頭がぼんやりと。視界も霞み始めた。
これは夢だ。きっと、疲れて寝てしまったに違いない。そう言い聞かせて、斎郎は夢から覚めるまで、槐が指し示すままに景色へと目を向け続けた。
けれども、行けども行けども、藤紫の景色は続いて終わりが見えない。視界の全てが藤紫ばかりで、段々とぐるぐると同じ場所を巡っているだけのような感覚に陥りそうになる。幻覚を見ているような、夢でも見ているような。ますます思考が鈍り、目の前にいるはずの槐の姿が湾曲し始めた。
やがて、槐の足が止まった。
槐の手に引かれ、辿り着いのは一際大きな藤の群生。太い蔓が樹木のように犇き、広がり、大きな藤の樹を支える。その蔓を背に、槐は腰掛けて斎郎もそれに倣った。
槐は
それが、あまりにも美しくて。藤花の
斎郎は、恐ろしかった。
静寂の美しいばかりの世界が、この世でない気がして怖かった。他の誰もいない気がするのに。藤花の犇きと共に、気配は粒なりに重なり合ってでもいるかのように――それこそ、槐が指で指し示したように、意思があるかのよう。辺り一面に視線を感じて、こちらを見ているような気がしてならなかったのだ。
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