第七話
開かずの間は、夜になるとずんと重暗い。昼間とは違い、夜の空気が冷やりと肌に伝う。それこそ、夜を閉じ込めたように差し込む月明かりも無いものだから、どれだけ夜目を効かせた所で見通せはしないだろう。
誰もいないのではと思わせるほどにしんとして、人の気配は無いに等しい。けれども、斎郎が歩くたびに軋む廊下の床板の音で、どこの部屋からかゴソゴソと物音がし始めた。
――寝ていたのか……?
斎郎の脳裏に寝起きの槐の姿が浮かんで、思わず頬が緩んだ。同時に、懐に仕舞った櫛を思い出して、そっと着物の上から触れる。
「はあ」
緊張で思わず漏れた吐息。もう一度出そうになるそれを噛み殺して、斎郎は目的の部屋へと真っ直ぐに進んだ。開いた襖の先は、廊下程では無いにしろやはり暗闇に近かった。ただ、小窓から差し込む月明かりが、ぼんやりとだが部屋の主の姿を映し出して、斎郎はいつも通りだと安堵した。そうして聞こえてくる「斎郎」と、繊細に己を呼ぶ声。
斎郎は手燭台を前にして、声の主の方――格子へと近寄った。時刻構わず槐の下へと訪れるようになってからと言うもの、格子の扉の近くには
「今日は遅かったね。仕事、大変?」
辿々しさと幼さが薄らいだ槐の話し声。しかし、時が流れても、格子の向こうで礼儀正しく座る姿。色白の肌も、行灯の前では紅に染まったように。しかし、どこか妖しげな雰囲気も醸し出す。
里の誰にもない不可思議な魅力。そして、人とは異なる美しさを兼ね備えた槐の姿を前にして、斎郎はまたも息を吐いた。今度は緊張や疲れではなく、安堵の心地から出たものだ。
「遅くなって悪かった。ちょっと用事があって」
そう言って、斎郎は自身の懐を探る。紐でくくりつけた鍵を取り出すと、遠慮なく格子の鍵を開けて中へと入った。槐もまた、それを当然といった様子で受け入れている節がある。これが見知らぬ他人であれば、槐は警戒してそばに近寄ろうとすらしないだろう。九年という歳月を重ねたからこその、互いへの信頼でもある。
斎郎は座る槐の横へと無遠慮にごろりと転がる。斎郎にとっては槐の傍が気を抜いていられる瞬間で、槐もまたそんな様子の斎郎の頭を撫でた。仕事が忙しい、覚える事が多くて大変だと常々愚痴をこぼすからか、槐の手つきは労りと、斎郎を慮る心がありありと浮き出ていた。
それがまた、心地良い。
――槐を外に出せたら良いのに
そうすれば槐を嫁にすると堂々と宣言できるのだ。しかし、斎郎も十六歳という年齢になったが故か、それが容易ではない事ぐらいは理解していた。
斎郎は杜氏の子。石清水の技術と術を後世に繋いでいかなければならないのだ。そうなると、自然と
『私、お父様にあなたと結婚したいってお願いしたの』
ふつと蘇った、ユキナの言葉。斎郎はユキナから逃げたが、後々問題になる事は目に見えていた。あれは、何かを欲しがると、手に入れるまで満足しないのだとか。
それを思うと、斎郎の心持ちはまたも落ち込んで、陰鬱な気分に陥りそうになった。ずるずると、開かずの間の廊下のように脳裏が真っ黒に染まりそうになった。が――
「斎郎?」
澄んだ声が耳に入り込んで、それも止まった。斎郎は目線を上げ、今も頭を撫で続ける主を見やる。どうにも、斎郎が思い詰めているようにでも見えているのか、怪訝な顔つきからは不安が読み取れる。
――こんな感情豊か。思いやりもある……人間となんら変わらねぇよな……
斎郎は身体を起こして、槐に向き合った。懐をゴソゴソと探って、飾り櫛を取り出す。掌の上に乗せて行灯の光に晒すと、削られて窪んだ藤の細工が輝いて見える。
それが、槐にも見えたのだろう。蕾が花開く瞬間のように顔を輝かせて、身を乗り出した槐は「それ、藤の絵ね」と楽しそうに笑った。
瞬間、斎郎の胸は筆舌し難い感情の昂りで一杯になった。これ以上ない想いが駆け巡り、頭の中で
「やっぱり、俺は槐が良いな……」
「何の事?」
槐は櫛を送る意味を知らない。だからこそ、今も昔と変わらない無垢な瞳を斎郎に向け続けているのだろう。純粋で、濁りも欲望も持たない輝き。その輝きが増す瞬間を、斎郎は見たいと思った。
もっと、見ていたいと。
「これ、槐が喜ぶと思って買ってきたんだ」
「良いの?」
斎郎はそっと槐の手を取って、その上に櫛を乗せる。ほんの少し角度が変わるだけで、またも藤はゆらゆらと光を散りばめ、その都度に槐の瞳は輝きは増す。そうして、大事そうに胸に抱えて「ありがとう」とこぼした槐の微笑みは、これ以上ないものだった。
――買ってよかった
最高の至福を手に入れたような心地で、斎郎はそっと槐の頬に手を伸ばした。
「槐、俺と夫婦になってくれないか」
槐は小首を傾げて斎郎を見つめた。まだ、夫婦の意味を知らないのか、つぶらな瞳は斎郎へと疑問を投げかけ答えを待っていた。
「えっと、結婚する事……じゃ伝わらないな……家族になるんだ。これから一緒に……生きて欲しいそういう意味だ」
斎郎は上手く説明出来ない自分を恥じて、更には勢いで求婚をしてしまった照れ隠しなのか、槐から目線を逸らしてどうにも落ち着かないと頭をぼりぼりとかく。
しかし、未だ槐に伝わり切っていない様子に、斎郎は並べた語句で考えをまとめると、背筋を伸ばした。
「えっと、そうだな。俺は槐と一緒に生きたい。今すぐにってわけにはいかないが、俺と結婚して夫婦になって欲しい」
斎郎の真っ直ぐな瞳。槐も感じるものがあったのだろう。
槐は笑った。この上なく、斎郎へと愛おしさを伝えるように柔らかく。そうして静かに一つ、頷いたのだった。
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