第六話

 それからまた、三年の月日が経った。

 

 斎郎は十六歳になり更に上背も伸びて、身体付きはさらにたくましく。顔立ちは精悍な青年へと成長していた。

 変わらず酒蔵での仕事と父から杜氏の修行を受ける日々。何ら変わりない――しかし、斎郎の日々は充実していたと言っても良い。将来、杜氏として信頼された仕事仲間との関係と、上手くいっているとは言い難いが父親とは程良い師弟関係。友人は多くはないが、大して気にもならない。なんと言っても、家に帰れば槐がいた。



 里には時折、行商人が訪れる。連尺れんじゃく(※背負子のような物を背負う道具)でひつを背負う――連雀れんじゃく商人と呼ばれる者達なのだが、地方をその足で歩き回っているからか商品は珍しいものが多い。まあ、石清水自体が山奥とあって、里の者達にとっては山を降りた先に売っているものでも珍しいに変わりはないのだが。そんな侘しい里は、連雀商人には良い鴨だろう。そうと知りながらも、斎郎は連雀商人の客の一人となろうとしていた。


 カアカア――と鳴く鴉の声を背に、斎郎は連雀商人が並べた商品と睨み合う。昼頃に開かれた店も、流石にもう今日はもう店仕舞いの時間。だとて、斎郎の悩みは一向に頭の中から出て行ってはくれなかった。視線の先にあるのは黄楊つげの飾り櫛。特に凝った作りとかではなく、表面を磨いて艶があるだけの簡素な品。しかし、細工として藤の花が掘られて、一目見て槐が喜ぶ顔が浮かんだのだ。

 だが櫛に手を伸ばしかけた瞬間。櫛を贈る意味を考えてしまい、斎郎の手は迷ってしまった。宙に浮いたままとなった手を一度引き戻して、しかし今を逃すともう買えないと思うと、やはり買おうかと手を伸ばしそうになる。そうやって悩み悩んで、刻々と時間は過ぎていった。

 そんな事を仕事が終わってからもう四半刻は悩んでいるものだから、夕焼けがもう姿を隠す頃合いとまでになっている。


 薄暗くなり始めた手元。薄ぼんやりとした視界で、もう腹を括らなければと急かされた斎郎の手がようやっと飾り櫛を手にした、その時だった。


「あら、地味な櫛ね」


 突如降り注いだ女の声で、斎郎の肩が飛び跳ねた。その声の主は斎郎の背から櫛を覗き込んで、やたらと距離が近い。斎郎は女を疎んじる目を横目に向けて、しかしそれもすぐ前に戻す。店主へと金を払うと、すっと立ち上がって、女を避けるように歩き始めた。しかし、女は気にせずに斎郎の後を追ってくる。


「ねえ、それ誰にあげるの?」

「別に誰でも良いだろ」

「もしかしてミツバ? それともサチ?」


 女が口にした名前はどちらも里の中で斎郎と歳が近く、評判の良い娘だった。


「だから」

「じゃあ、あたし?」


 女は斎郎の腕に、自身の腕を絡ませる。傍目から見れば恋人のそれにも見えるだろう。しかし、それが斎郎にはいたく不快で顔を歪ませる。しかし下手に振り払えはしなかった。


「誰でもない」


 そう静かに答えて、斎郎は櫛を懐に仕舞う。それだけで、お前への贈り物じゃないと言っている事は同然。女は不快と感じたのか僅かに眉が動く。


「ねえ、頂戴よ」

「地味なんだろ」

「でも、斎郎が選んだものなら欲しいわ」


 女は強請ねだるように上目遣いで、更に斎郎の腕を強くに引き寄せる。それがまた、斎郎の心根を騒つかせて、気分は落ちる所までずんずんと下がていた。


「なあ、」


 女の行動が目に余って、斎郎が何か口にしようとした。だが、女は斎郎が言わんとする言葉を察したように、言葉を被せてきた。

 

「私、お父様にあなたと結婚したいってお願いしたの」


 斎郎は思いがけない女の言葉で足は完全に止まってしまった。


「もう直、斎郎のお父様にも話が行くんじゃないかしら。だから――」


 女の顔は勝ち誇ったようにほくそ笑んで、斎郎へと見せつける。それが斎郎には悪意にしか見えなくて、腕を振り払いたい衝動に駆られるも、拳を握りしめて必死に抑えた。

 女――ユキナは石清水の里を取りまとめる四ツ家の生まれ。ユキナが、斎郎に好意を持っている事は、斎郎自身も気づいていた事だった。あからさまな態度。斎郎への牽制。だから尚の事、下手に扱えば、制裁は斎郎ではない誰かへと向くという事も良く知っている。女が櫛を欲しがる意味は、何となしに察していたから、もう何も聞こえないふりを決め込んでとっとと家に帰るしかなかった。何事もなかったように自分の家まで辿り着くと、腕を女の手中から引き抜いた。


「俺が送らなくても帰れるだろ」


 斎郎が吐き捨てた言葉に、ユキナの顔が歪んだ気がした。薄闇の中では、表情は判別がつき難い。距離が出来れば、それこそ顔は無へと変じていく。斎郎は何も見ていないふりをした。そそくさとユキナをその場に残して、家の中へと入って行った。

 ユキナが立ち去る足音がしない。玄関を閉めるその時まで執着と視線が絡みついたままなような気がして、斎郎は一度として振り返る事ができなかった。逃げるように足早で自室へと飛び込むと、斎郎は息つく間も無く手燭台てしょくだいを一つ用意した。

 

 台所で火種を貰えば、「もう直に夕餉の時間ですよ」と言う下女の声。それを無視して、駆け足で奥座敷よりもさらに奥――開かずの扉へと向かって行った。

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