第二話
「俺、そろそろ戻らないと」
部屋は薄暗く、時間の流れが解り難い。座敷牢の中にある小窓だけが光源になっているが、それでもどれだけの時が過ぎたのか。斎郎は段々と焦り始め、ふとした拍子に繋がっていた小指が外れてしまった。
――此処にいる事が誰かに知られたら……
入ってはいけないと言われた場所にいる。そんな些細な事を思い出して、斎郎の肝が冷え始めた。まあ、当然と言えばそれまでだ。斎郎は、まだ七つ。どれだけ好奇心があろうとも、悪戯が露見した時ほど恐ろしいものはない。時が経つにつれ、斎郎の中で好奇心よりも恐怖心が大きくなって行くのは当然の事だった。
そわそわし始めた斎郎の様子に気づいたのだろう、少女からは笑顔が消えて、しょんぼりと沈む。しかし、落ちた視線の先にある小指を見つめて、先程の約束を思い出したのか、じっと斎郎を見やる。そうして、弱々しくも薄く開いた唇を震わせた。
「さいろう、また来てくれる?」
不安は嫌でも斎郎に伝わった。母がいないまま、こんな薄暗い部屋で一人過ごさなければならない。それを思うと、斎郎は冷えた肝が今にも縮こまってしまいそうだった。だからと言って、斎郎はずっとこの部屋にはいられない。
「うん、またこっそり来るよ」
またな、と斎郎は手を振った。それが別れの挨拶と察すると、少女もまた手を振っていた。
◇
線のように細く、ほんのわずかに差し込んだ入り口の光を目指して斎郎は廊下を進んだ。行きと同じく息を潜ませ、ゆっくりと。そうしてたどり着いた扉をゆっくりと開けた――と同時、斎郎は目を見開かせた。
「父ちゃん……」
斎郎の父が、戸の外で仁王立ちで待ち構えていたのだ。しかも、叱りつける時と同じの厳しい面持ちを引っ提げて。ああ、これはもう拳骨が落ちてくる一歩前だ。悟った斎郎は、父の顔を見た瞬間に頭を手で覆った。ぎゅっと目を瞑って、近づく父の気配を待つ。しかし、一向にその時は訪れない。斎郎は瞼をそっと開いて父を覗き見ると、父は今しがた斎郎が出入りした扉に鍵を掛けていた。変わらず顔つきは厳しいままで、その顔が斎郎の方へと向けば、斎郎の肩はびくりと跳ねた。
今度こそ、と思ったのだが、しかし斎郎の読みとは違い、父はひっそりとした声で「話がある」とだけ言った。
踵を返した父の足が向かう先は、恐らく父の私室。斎郎は言われた通りに後に続くしかない。けれども、後を追う父の背から怒気は無い気がするのに、代わりの緊張した空気が嫌に首に絡みついた気がした。
◇
斎郎は翌日も開かずの扉の前にいた。手には、斎郎の父が使用していたものと同じ鍵。
昨日、斎郎は咎められなかったのだ。
向かい合った斎郎の父は静かに、これからは斎郎が鍵の管理を任せると告げ、好きな時に少女のもとへと行く事も許可をした。しかし、理由は教えて貰えていない。少女が閉じ込められている理由も、彼女が何者なのかも、なに一つとしてだ。だとて、斎郎は父が恐ろしいものだから、硬い顔のままの父に下手に深掘りは出来ない。だが知れた事もあった。
彼女の名前だ。
『あれは、
赤の他人の名を口にするよりも軽薄な物言いだった。まるで、少女――槐が物のような扱いをされているよう。しかし、斎郎は父の口振を流すしかない。下手に口答えして、癇癪を起こされてはたまったものではないのだ。
だが一つだけ、どうしても訊いておかねばならない事があった。少女の母の事だ。斎郎は鍵を持っていた父ならば何か知っているだろうと考えて、斎郎は勇気を出して尋ねてみた。
斎郎がその事を口にした瞬間、父の眉間の皺が寄った。厳しい顔が一段と不快を露わにして――そうして、一拍置いて淡々と答えた。『あれの母親は忽然と消えてしまった』と。
斎郎は父の許可が降りて、早速次の日から少女のもとへと足を運んだ。が、実の所、扉の前で二の足を踏んでいた。少女の母親を探すと言っておきながら、少女に何一つとして仔細を伝える事ができないのだ。既に母は消えたと斎郎の父に言われてしまった。その上、少女の事は口外するなとも言われてしまい、下手に探し回る事もできない。いくら斎郎がまだ七つの子供と言っても、指切りまでした約束を守れない事が恥ずかしいと感じる年頃ではある。気まずくて、胸はもやもやとして気が重い。思うように足は動いてはくれなかった。
しかし、斎郎は泣き腫らした少女の顔を思い出す。胸に手を当てて深呼吸すると、その辺りに隠したものがある事も一緒に思い出して、少女が喜んでくれる事を切に願う。そうしてやっと、鍵を押し込んで錠を開いたのだった。
◇
また泣いていたのだろう。少女は目は赤く充血して、目も周りは腫れたままだった。それでも斎郎を目にした瞬間に少女の瞳は輝いて、斎郎の胸がずきりと傷んだ。今にも格子の向こうから飛び出してしまいそうな勢いで喜ぶ様は、どんよりと重い空気ですら澄んでいくようだ。そわそわしながらもちょこんと座って、うずうずと斎郎がそばに来るのを今か今かと待つ。そんな少女の愛らしさに斎郎の心は罪悪感を宿しながらも、小さな蝋燭に火が灯されたように暖かくなった。
それでも真実を伝えるには至らず、格子越しの少女を真っ直ぐに見れない。そんな気弱な心が、ほんの少しの嘘を織り交ぜた。
「ごめん、まだお前の母ちゃん見つけられていないんだ」
そう、まだ見つけていないだけ。斎郎の父が嘘をついた可能性だってある。そうやって自分を言い聞かせるように、斎郎は続けた。
「また、探してみるから」
少女は格子の向こう側。きっと何も知りようが無い。けれども、少女が期待を込めた無垢な眼差しで「うん」と頷くものだから、斎郎の胸がまたずきりと傷んだ。込み上げる痛みと後ろめたさ。斎郎は、思わず胸を抑えようとすると、懐に隠したものがある事を思い出す。
「そ……そうだ、今日は良いもの持ってきたんだ」
胸の痛みを誤魔化すように、斎郎は懐から薄い和紙を三枚取り出す。淡い色合いの赤と紫と白い和紙。斎郎の懐に入っていたからか少し歪んでいたが、それでも丁寧に広げると正方の形になった。
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