幕間 思い出 壱

第一話

 家の中で誰かが泣いていた。

 うんと幼い女の子の声。いつも、微かに聴こえる声は弾んだように笑ったり、楽しげに歌ったりと賑やかしいのだが――それが、今日は泣いている。



 まだ七つを越えたばかりの少年は、一人、誰もいない家の中にいた。里で二番目に大きな家は、人がいないと、とんと静かだ。

 特にやる事もなくだらりと寝そべって、買ってもらったばかりの図譜ずふを広げる。図譜といっても動物や花ではなく、真偽不確かな妖や付喪神と云われるものばかりが描かれたものだ。縁のない者からすれば信憑性は低いだろうか。しかし、少年にとっては妖というのは、そう遠い存在ではなかった。

 ほら今も――


 ――シクシク……


 今日は家の中ががらんとして、声が通りやすい。この家では、見知らぬ母と子の声が家の奥から聴こえる事はままある事だ。しかし聞こえても、両親には聞こえないふりをするようにと――何があっても気にするなと、口を酸っぱくして言われていた。のだが……延々と泣き続ける声に、聞こえないふりはもう出来そうになかった。

 朝から泣き通しで疲れたのか、今は啜り泣くような声に変わっている。そのうち泣き止むだろうと考えていたが、終わる気配は無い。

 

 

 思い立ったように図譜から目を逸らし、少年の足はそっと家の奥へと向かっていた。広い、広い屋敷。山の中腹を切り開いた里にある邸宅にしては大きい方だろう。少年もまだ、知らない部屋もある程だ。まあそれは、まだ少年が入ってはいけないと言われている部屋が奥には幾つもあるから、と言うのが理由でもあるからだろうか。


 その中でも、奥座敷の更に奥は禁じられていた。覗き見るどころか、近づく事さえも。少年はどちらかと言えば気弱な方で、年上どころか、二つ年下の子供に悪戯に蹴られても、にヘラと笑て済ましてしまう程に事を穏便に運ぼうとする。だが、好奇心が無いかと言えばそうではない。いつも大人達が行き来する、禁じられた部屋が気に掛かって仕方がなかったのだ。

 今日であれば誰にも叱られないかもしれない。そんな、子供らしい浅知恵が少年を動かした。


 奥へと続く扉はいつも鍵が掛かっている。けれども、何故か今日は錠が外れたまま、締まり切っていない扉には薄らとした隙間が出来ていた。どうやら、声がいつもよりも響いた原因はこれのようだ。鍵が開いているとなれば話は早い。少年の好奇心は一気に膨らんで、もう次の瞬間には扉の隙間に手を入れていた。


 ……のだが、扉を開いた瞬間に、一気に膨らんだ好奇心は一気に萎む。何せ、扉の向こうは薄暗い廊下。子供心に真っ暗と言っても差し支えのない程に薄暗く、差し込む光も無ければ蝋燭も無い。それが妙におどろおどろしくて、見つかって叱りつけられるのとどちらが怖いかだろうかと少年は比べて見る。しかし、今も薄闇に向こうからは啜り泣く声が続いて――僅かに残った好奇心が疼いて、けれども暗闇への恐怖心が意味もなく、こっそりと忍ばせた足でひたひたと泣き声の方へと進んでいった。

 

 そんな、好奇心と恐怖心を混ぜこぜに抱えた少年が目にしたもの。泣き声を辿った先の襖をゆっくりと開け、最初に目に飛び込んだのは、一人の幼い少女だった。少年と同じ年頃だろうか。素朴で古びた着物を着ているが可憐な姿。しかし、啜り泣く仕草や声は幼さが滲み出る。そんな幼い少女が、格子で仕切られた座敷牢に閉じ込められていたのだ。

 少年は、奥には妖怪が住んでいるのだと思っていた。珍しいから家の奥で飼っているのだと。啜り泣く声も妖怪の子供なのだと。

 少年は驚くばかりで、少女を見つめたまま言葉を失っていた。そんな少年に、泣き腫らして枯れた声が落ちた。


「だれ?」


 驚く少年を他所に、人の気配に気づいた少女は泣き腫らした顔を少年へと向けていた。なんとか涙を堪えているのか、今にも泣きそうな顔は赤く火照ほてる。どうやら涙を我慢する程度には少年に興味が湧いたようで、警戒心低く物珍し気に少年を見やっていた。


「俺は、えっと……さいろう」


 少女の警戒心の無さに感化されたのか、少年も座敷牢へと近づく。そんな少女は斎郎と名乗った少年を格子ごしにじっと見て、赤く腫れた目をごしごしと擦った。


「……わたしは、」


 少女はそこで止まった。同じく名乗り返そうとしたのだろうが、言葉が続かない。少年は「どうしたの?」と尋ねてみる。すると少女は小首を傾げるだけ。


「名前は無いの? お母さんにはいつもなんて呼ばれているの?」


 斎郎は何気なく口にしただけだった。しかし、どうにも「お母さん」の一言で、先程まで泣いていた事を思い出したようで、目には大粒の涙が浮かんでいた。「おかあさん」と、枯れた声で泣き喚く。少年――斎郎は慌てふためくばかりだった。ここまで自分が大泣きをした事が無いのもあって、どうやれば静まるのかが判らない。それに、あまり騒ぐと誰かに見つかるかもしれないと思うと、気が気でなかった。

 だから、破裂寸前に焦った斎郎は咄嗟に口を開いていた。

  

「お……俺が、お前の母ちゃん探してやるから!」


 その一言。少女はまた、ぴたりと泣き止んだ。


「ほんと?」

「ほんとだ。この里、小さいからすぐに見つかるよ」   


 そう言って、斎郎は更に格子に近づいて右手を前に出し、小指だけを立てて差し出してみる。


「約束してやるから」

「それなに? やくそくって?」

「指切りって言って、小指と小指を結んで約束するんだ」


 少女は再び小首を傾げながらも、格子の隙間から斎郎に向かって右手を差し出そうとした――――が。

 バチッ――と、何かが爆ぜるような音と共に、少女は手を引っ込めた。


「あ……わたし、ここから手、出しちゃダメだった……」


 少女は指を撫でながら酷く落ち込んで、ずんと沈んだ。痛みなのか、目を潤ませて折角止まった涙が再び溢れてしまいそうで斎郎は慌てた。少女がやろうとしたように、格子の隙間に手を入れて、しかし何事もなくすんなりと入っていく。


「俺は大丈夫みたいだ。ほら、右手」


 少女は戸惑いながらも自分の手の左右を確認して、おずおずと小指を立てた右手を斎郎のそれに近づける。すると、斎郎はそのまま小指を結んで、小さく上下に振った。


「これだけ?」

「……いや本当は、言わなきゃいけないことがあるんだけど、」

「なんて言うの?」

「はりせんぼん……でも、はり飲むの怖い」


 斎郎はぞっと顔を青褪める。約束を破る事が前提ではなくとも、どうにも針を飲むと思うと恐ろしいようで、気まずそうに少女に目をやった。

 しかし、少女はまたも小首を傾げて無垢な目を向けていた。


「はりって飲むものなの?」

「違うよ。飲んだらすごく痛いと思う。約束を破った罰で飲むんだ」

「痛いのに?」

「痛いからだよ」

「痛いのやだな、そんな事しなくて良いよ」


 そう言って、少女は結んだままの小指を斎郎を真似て振る。いつの間にか涙は消えて、代わりに少女はくすぐったい笑顔を浮かべていた。

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