第六話 契り

 身体中が熱いと感じる程の熱に包まれた槐は朦朧としていた。藤花の色も香りもまるで遠いはての先。叢雲が槐に触れる度、槐が叢雲に触れる度、叢雲の雨の匂いに支配された気がして、殊更に日常の感覚など消えさっていた。

 

 もう藤花の慰める歌声は凪いで。代わりに熱を孕んだ甲高い女の声ばかりが辺りに響いては消えていく。それが、自分の声と気がついても止める事は叶わず。

 叢雲が絡ませる手が、口を塞ごうとする槐の手を阻むのだ。指と指を絡ませて、そんな触れ合いにすら情欲の熱が身体中を駆け巡るよう。

 情交の意味を何ひとつ知らずに生きた槐にとって、全てが叢雲に流されるばかり。恐怖が無いと言えば嘘になる。しかし、叢雲の温もりを直に感じて何もかもがどうでも良くなりそうなまでに心が満たされていたのだ。

 時に口付けを交わし、時に指を絡ませ、時に快楽を与えられ、時に白い肌に指先を滑らせて。槐を恐れてなどいない手つきがまた槐の中の熱を昂らせた。

 そうして、何も考えられなくなった槐へと、叢雲が耳元で囁く。


「槐、血が欲しい」


 妖艶な男の囁きに、槐の満たされた心が警戒心を抱く事は無かった。ただ「ああ、そういう約束だった」、程度に考える。今、叢雲の金色の瞳がどれだけ獰猛な姿をしているかなど見えてもいない。一つの間を置いて熱い息と共に吐いた返事は、「良いよ」と軽いものだった。

 

 そんな、朦朧とした槐に叢雲は容赦なく牙を立てた。以前のように、左手首ではなく、剥き出した牙は艶かしく暴かれたままの左側の首筋に齧り付く。獣の性を晒したように、叢雲は荒々しかった。息を荒立て、今にも槐の肉すら喰い千切りそうな力で抑えつける。

 槐は全てを受け入れた。痛みはある。快楽の全てが吹き飛びそうなまでの痛みが。しかし、叢雲の首にしがみついて、背に腕を回して全てを耐えた。直に肌に触れ、温もりを感じて背を摩っていると、ふつと気が付く。


 ――背中にも鱗があるんだ……


 熱を帯びた肌とは違い、冷たくも滑らかな感触。何度と撫でてた鱗の感触それだと気がつくと、槐は続く痛みの中、自分だけの鱗の手触りを確かめるように何度も何度も繰り返して撫で続けていた。

 叢雲が槐の血を求めたように。槐もまた人の温もりと、人とは違うその感触を求めた。その姿はまるで、叢雲が自分のものになったとでも思い描いているような手つきだった。


 ◇


 もう直に、夜が明ける。そうすれば、槐は嫌でも現世に戻らなければならない。時間を惜しむように、槐は叢雲から離れられなかった。

 叢雲もまた、槐を背後から抱きしめた。適当に着崩れた着物を直しただけの槐の首筋に、未だ残り香を堪能しているように顔を埋める。名残惜しそうに、時折鼻を擦り付けては、首筋から肩口にかけて何度と口付けを落としていく。その度に、傷跡がちりちりと痛みが走ってむず痒い。何だかそれが別れの挨拶のような気もして、槐は思ったままを口にした。


「すぐに出て行くの?」

「いや、一度に必要な分の血を飲んでしまえば槐が干からびる。まだもうしばらくは時間がかかるだろう」


 槐は何故だかほっとした。叢雲がそばを離れる事を考えた時の方が余程胸が傷む。


 槐は不安を押し殺すように、枕にしていた叢雲の左腕を見た。黒い鱗が直ぐそばにあって、自然と手が伸びる。冷んやりとして、するすると、すべすべと、時折、叢雲の逞しい上腕の皮膚にも触れて違いを楽しんだ。


「正式な婚儀は此処を出てからにしよう。良い酒と美しい盃を探さないとな」


 心なしか、叢雲は楽しそうに語る。が、槐には情事の余韻の影響で、空返事で「うん」と答えるだけだった。外に出るという約束が、未だ霞の向こうの幻想にしか思えないのもあったのかもしれない。

 そんな槐の様子を察したのか、叢雲は槐を無理矢理反転させて、顔を見合わせる。


「槐、此処を出た暁には必ずお前を迎えに来る。お前に、ここの藤紫以上に美しいものを見せてやるから」


 そう言って、叢雲は槐と唇を重ねた。優しく触れているようで、芳醇な果実を味わい尽くす蛇は容赦なく槐の口腔内を攻め立てる。

 叢雲に翻弄されていると知りながらも、その心地に愛おしさすら感じる槐は、ただ、ただ身を預けるだけだった。



 第二幕 夢の逢瀬 了

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