第五話 惑い 四

「血がいるの?」


 槐は戸惑い問い返した言葉に、叢雲は頷いた。まるで、当然とでも言うように。

 ただ、疑問は残る。何故、叢雲は槐の血で死ななかったのだろうかと。あれは、鬼や妖には毒なのだと聞いていたものだから、尚の事疑問だった。


 ――叢雲は、鬼や妖ではないのかしら? それとも、此処が夢だから毒は意味を成さないのかしら?


 あれやこれやと考えても、槐自身、自分の事をよく知らない。知っているのは、自分の血が特別で、鬼や妖を殺す毒だという事だけなのだ。


「私の血、叢雲には毒じゃないの?」


 これには、叢雲は首を縦には振らなかった。

 

「お前の毒は俺には効かないらしい。それどころか、ここまで回復したのはお前の血が良質だからだ。いや、それ以上だろうな。もっと量を飲めば、ここから出る事も出来るだろう」


 叢雲の真摯な答えに、槐の胸がずきりと傷んだ。やはり、出て行く算段を立てている。先程、自分に期待するなと言い聞かせたところで、消沈する心ばかりはどうにもならない。しかし、続く叢雲の言葉に沈みかけた槐の顔は固まった。


「不躾な事は判っている。だが、力が完全に戻れば、お前を此処から出す事も出来るかもしれない」

「……え?」


 槐は言葉を失った。


「前にも言っただろう、礼をすると。此処からでは、お前の肉体が何処にいるかははっきり見えない。だが、力が戻り、藤花の夢ここを出たのなら、お前を探す事も可能かもしれない。そうすれば――」


 そうすれば、お前を助けてやれる。

 叢雲の言葉を聞き終えた槐は、伏せていた顔を上げた。しかし、すぐに泣き腫らしていたんだと思い返して、慌てて顔を隠そうとした。が、叢雲の手がそれを許さなかった。そっと紅梅の色に染まった槐の頬を両の手で包み込んで、親指で涙を拭う。


「お前の顔は愛らしい。気にする事はない」

 

 そう言って、惜し気もなく眦に口付ける。そうすると、槐の頬の色味はより一層、紅梅色よりも濃いつぼみの色へと変じていく。遅れて、声にならない声で口をはくはくとさせて忙しい事この上ない。


「槐、」


 涙が止まった頬から叢雲の手が離れて、そのまま髪を櫛けずる。片腕は槐の背を支えながらも摩って、声ひとつかければ僅かだが上せた心が落ち着いた。

 これは、本当だろうか。本当に何処にいるかも知れない自分を助ける事など可能なのだろうか。僅かな疑心が心の隅に残って、けれども、とある考えにたどり着いて槐はあっさりと頷いた。


「……良いよ、叢雲の為になるなら」


 槐は、思った。

 母との思い出のように。。きっと、叢雲もまた思い出になるだけだ。


 苦しいのは今だけで、きっと、叢雲の事もいい思い出だったと思える日が来る。そう考えたのだ。だが、槐の答え方が不満とでも言うように、叢雲の眉根が寄った。


「お前、俺の事を信じていないだろう」

「そんな事、」

「ある。お前は、俺に裏切られても良いと思って了承している。言っておくが、俺は約束は守るたちだ」


 叢雲は更に槐に詰め寄った。叢雲の膝の上で、更には腕の中。槐に逃げ場など最初からない。


「俺が信じられないというならば……そうだな契りを交わそう」

「それって約束をするっていう事?」

「ああ、そうだ。そうすれば俺は裏切れない」


 槐は、じゃあと言って小指を差し出す。しかし、叢雲の反応はいまいちで、眉根は緩んだが「そうじゃない」と言って、淡く笑った。


「それも確かに約束だが、俺の小指で良いのか?」

「あ、蛇って指が無いんだっけ」


 槐はポロリと本音をこぼす。鱗がある生き物で山を彷徨うとしたら、魚よりも蛇と考えたのだ。人間の姿を模しているから指があるだけ。槐はそう解したが、叢雲はもう一度「そうじゃない」と言って、声を出して笑っていた。


「槐、約束は約束でも、夫婦の契りだ」


 さらりと述べた叢雲の言葉に槐は一瞬固まった。夫婦というものを知らない程無知では無かったが、叢雲から出てくるとは考えていなかった言葉だ。


「槐、どうした?」

「あの、夫婦って」

つがう事」

「どうやって」

「正式な儀式だと、盃を交わすか、餅を食うか、他にもあるが……一番簡単なのはまぐわう事だが」


 槐は固まった思考をなんとか動かして、もう夫婦になる事が決定しているような口ぶりで続ける叢雲を止める術を考えるも、名案は思いつきそうにない。


「まって、叢雲は私と夫婦になるのは良いの? 結婚って大事な事なんでしょ? 私なんかで良いの?」

「俺は構わん。何より、俺にはお前の血が必要だ」

「じゃあ、指きりでも」

「小指では安すぎる……それとも、槐は鱗がある男とは夫婦にはなりたくはないか?」


 槐を抱えたままの叢雲の顔に槐は目をやった。確かに叢雲の頬には鱗があって、人ではないと知らしめる。それが嫌かと言われて、槐は別段に何も思わなかった。


「ううん、人間の形をしていても嫌な奴はいるもの。それに、叢雲の鱗はすべすべしていて気持ちいいよ」

「ならば、問題あるまい」


 そう言って、槐は軽く持ち上げられたと思えば、景色が一転する。気づけば、槐は叢雲に覆い被される形で、藤花達を見上げていた。


「……契りって何するの?」


 まだ、叢雲に遠慮した戸惑いを、槐は口にした。此処には盃も餅も無いのだ。


「一番簡単な方法だ。経験はあるか?」


 槐は、叢雲が最後に言った一番簡単な方法を思い出して、首を横に振る。


「まぐわうって何?」


 無垢なまなこが、無防備に叢雲を見上げた。何も知らないからこその余裕の表れなのか、組み敷かれても尚、槐の手は叢雲の頬にある鱗へと伸びて、好きだと言った感触を確かめるように鱗を撫でている。

 叢雲は、ふっと笑う。「こういう事だ」と言って、鱗を撫で続ける槐の手を捕まえた。

 何も知らない無垢な目は叢雲を見つめたまま。そこへ、叢雲は再度眦へと口付けを落とす。それだけで、槐の頬が紅梅色を取り戻して、緊張した声が「これで終わり?」と尋ねる。しかし、叢雲は槐の言葉に答えるよりも先に、槐の唇は叢雲のそれで塞がれた。

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