第四話 惑い 三
◆
ああ、現世はなんて煩わしいんだろう。
槐は逃げるように夢へと戻った。
夢は静かだ。藤花は無駄な事など言わず、変わらず槐を迎え入れ、いつだって槐の心に寄り添ってくれる。思い悩む事の無い夢の方がずっと良い。それに今は――
槐の目は夢に着くなり
――もしかして、傷が治ったから出て行ったの?
昨日抱きしめられた温もりが、夢の中ではまだ微かに残っていて、けれども焦りと共に薄れて行く。また、一人になる。それは今まで通りの日常に戻るにも等しい。誰も居ない静かな藤花の園で、藤花と過去の思い出のだけで寂しさを紛らわせる日々。だが、それが戻ると思うと、槐の心臓は今にも押しつぶされてしまいそうだった。
必死で走って、異物の気配を探し回って、話しかける藤花の声すら耳に入らない程に焦心に苛まれて行く。どれだけ探しても叢雲が居ない。気配も無い。次第に諦めと共に焦心は失望に変わり、忙しなく動いていた槐の足は止まってしまった。
――叢雲は偶然入り込んだだけだもの、仕方ないわ
時が来れば、叢雲が居なくなってしまう事は槐も判っていた。出て行けと言ったのも槐だ。
槐はその場で力無く
今ままで耐え忍んだ心が脆くも崩れてしまいそうなまでに、槐の精神は揺らぐ。今にも泣き出しそうな心を押さえ込むように、自分の肩を強く握った。誰かに期待するばかりでは、苦しいのだと自分に言い聞かせ。けれども寂しさが込み上げる度に、まだ記憶に新しい黒い姿の温もりを求めてしまう。
寂しい。辛い。苦しい。悲しい。
――一人は嫌
そうして、槐は一粒の涙と共に名を口にした。
「……叢雲、」
涙と共に藤花の夢に伝った言葉は、藤花達を震わせた。
リン、リン、リン、と鈴にも似た音。幼子へと子守唄を歌うような。柔らかい音色が辺りから響く。
泣かないで。
泣かないで。
そんな言葉が藤花達から聞こえて来るかのように、鈴なりになった藤の花達は声を合わせて槐を包み込んだ。
だがその時。ガサリ、と藤をかき分ける音が槐のは後から鳴って、そして――
「槐、」
槐はそっと、背後を振り返る。もう出て行ってしまったと思った姿がそこにあった。嬉しさのあまり、泣き濡れた顔がくしゃりと歪んでしまい、槐は慌てて顔を伏せる。きっと、醜い顔をしているに違いない。そう思うと、一向に叢雲へと顔を向ける事など出来そうになかった。
しかし、槐の胸中を知ってか知らずか、地を踏む音は確実に槐へと近づいた。藤花の鈴音が歌い続ける。それが歩みと重なって、燻る槐の心に良く響いた。
「先ほど、呼んだろう?」
心が落ち着かない槐と違い、叢雲の声音は穏やか。藤花のそれと同じで柔らかい。叢雲もまた、泣き腫らしている槐を慰めているのか。そうして近づいた足音が槐の傍で止まって、間も無くして槐の身体がふわりと浮き上がった。
「えっ、」
「顔を見られたく無いのなら伏せていろ」
叢雲に抱えられ、しかし今は酷い顔をしているから下手に抵抗もできない。けれども、誰かが何事も無く触れている事が、何よりも安堵して槐は叢雲の身体に頬を擦り寄せた。
「もう出て行ったのかと……」
藤花の鈴音に紛れてしまいそうな声で、槐は悲しみをこぼした。
「境界を探っていたんだ。あちらこちらを歩き回っていてな」
それは、いつか出て行く為の下準備だろう。入ってきたのだから、出る事も出来る。出ていけと言った槐の言葉通り、叢雲は約束を守ろうとしているだけ。それがまた無性に虚しくも感じて「ずっと此処に居て」、そんな言葉が、涙と一緒に溢れそうになった。だが、ひとつ所に縛られる苦しさを知っている槐だからこそ、決して口には出来ない言葉だった。しかし身体は正直だったようで。不安が募るばかりの槐は、知らず知らずのうちに叢雲の着物を摘んでいた。
「もう身体は大丈夫なの?」
槐は涙を拭い、寂しさを紛らわせるように何気ない言葉が落ちた。歩く速度といい、歩き方といい、叢雲の身体に異常は感じられない。まあ、そもそも夢の中なので、何を基準にするかは知れないのだが、それでも傍目、叢雲にはもう夢に留まる理由は無いようにも思えた。
しかし、叢雲から返事はなく。ただ無心で歩き続けるばかり。そして、いつも過ごした太い藤の幹へと辿り着くと、叢雲は槐を抱えたまま腰を下ろして抱きしめた。吐息までもが近づいて、その距離が槐には何か思わせ振りのようにも思えてならなかった。そう自分が期待しているだけ。そう言い聞かせたが、次に紡がれた言葉が槐へ更なる期待を呼んだ。
「……槐、まだ少し此処にいても良いだろうか」
「まだ何処か悪いの?」
「概ね問題は無い、だが……」
言葉はそこで詰まった。代わりに、叢雲の吐息で首筋が熱い。熱くて、胸が苦しくて、次の言葉が待ち遠しい。けれども期待外れの言葉かもしれないと思うと、もっと胸が苦しくなる。
だが、次に叢雲が口にした言葉は、槐の想像だにしないものだった。
「なあ、槐。お前の血を、また分けて貰えないだろうか」
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