第三話 惑い 二
自分の血は毒。
自分は恐れられる存在。
だから、一人孤独に閉じ込められている。
真っ当な扱いも、尊厳も、無いのだと。槐は自分に言い聞かせてきた。そうやって、逃げられない孤独から耐えてきた。けれども叢雲は、何事もなく槐を抱きしめる。その腕の温かみは、もう槐が諦めていたものだった。
――ああ、この夢が永遠に続けば良いのに
そうして耳元に顔を寄せて、「槐、」と名を呼ぶ。まるで、満月の月明かりのように柔らかく、花の蜜よりも甘い声色に心根まで浸されたようで、槐の胸は高鳴った。
◆
瞼を開きたくはなかった。もう、叢雲の心地は消えて、ぬくもりすら思い出せないほどに冷えた身体が横たえているだけ。もう憎む事に疲れた思考が、諦めと共に瞼を押し開く。日々変わらぬ格子の姿を目にして、消える事の無い日々を思い知るのだ。
間もなくして、いつも通りの時間が始まった。
槐は耐えた。大人しく耐えて、やり過ごせばさっさとこの男達は出ていく。どうせ逃げられないのなら、ほんの僅かでも叢雲のいる藤花の夢へと戻りたい。焦燥にも似た感情を胸の奥底にひた隠して、槐は耐えるだけだった。
槐が大人しくしている効果か淡々と作業は進んだ。それでも、槐にしてみればやっとの事。男達がさっさと出ていく中、何故か
何か話があるのだろうか。斎郎は、槐から目線を逸らして畳の目でも数えるように顔を上げない。だからと言って、槐が話しかける気にはならなかった。腹の中で、さっさと帰ってと念じるも当然だが通じない。
ただただ腹立たしい。だというのに、斎郎はちっとも話しかけるでも立ち去る様子もないものだから、次第に槐の眉間に皺が寄っていた。
それに気がついたのか、それとも良い加減話す気になったのか。斎郎が上目遣いに顔をあげて、槐に聞こえるかどうかの細々とした声で言った。
「また、昔のように話をする事はできないだろうか」
と。抜け抜けと言ったわけでは無いだろう。
「本当はもう顔も見たくないのに、今更無理よ」
自身から滲み出る毒を口から吐き出すかのように、槐の声には恨みが籠る。斎郎も、一眼見て槐を怒らせただけだとしてた様子で引き下がった。
「悪かった、怒らせるつもりはなかったんだ」
積年の恨みを込めた眼差しから逃げるように、斎郎は足早に部屋から出て行った。足音がだんだんと遠のいて微塵も槐に思い入れなどなく、寧ろ逃げているように思えて、槐は虚しくなるばかりだった。
「……あなたのそういうところが嫌いよ」
槐は、独り言つ。まるで、「嫌い」と言葉で吐露して、自分に言い聞かせてでもいるかのように、声は震えていた。
◇
「親父」
斎郎が座敷牢から遠のいて、もう次の仕事にかかろうと思った矢先だった。斎郎を待ち構えていた史郎に声をかけられて、斎郎は思わず肩を
「あれは……怒らせたかったのか?」
ある程度話を聞いていたのだろう。呆れが含まれた息子の言い分に、斎郎は肩を落として自重気味に笑った。どう見ても逃げ腰で、好意的でないことなど一目で見抜けるほどに自身の姿は間抜けだったのだろう、と。
「いや、前はどうやって話をしていたか思い出せなくてな。結局怒らせちまった」
力無く項垂れる斎郎に、史郎は酒蔵に行こうと促す。まだ今日もやる事があるのだ。
そうしてとぼとぼと歩く斎郎に合わせて、史郎は歩く。それが、何故だか責められているような気がする。史郎の性格上、そんな事は無いだろう。父である斎郎自身、それを良く知っていた。けれども、
しかし、そんな心の内を読んだかのように、史郎は背後から斎郎を刺すように言った。
「親父、そんなに嫌なら隠居すれば良いじゃないか。俺は後継じゃ駄目なのか?」
斎郎は足を止めて、背後を振り返る。自分の子とは思えない程の威勢の良い若者が、何気ない顔して立っている。その顔は一見して、不真面目で軽々しいようにも見える。しかし、史郎は言いたい事をはっきり言う性格で強気で押しは強いが。根は真面目だ。単純に父親が苦も無く息子に苦労を押し付けられるように、わざとやっているようにも思えた。
「……俺が屑だったら、お前にほいっと投げてたかもしれないな」
自分がもっと嫌なやつだったら、そんな事を考えて斎郎は再び足を進める。史郎もまた、歩調を合わせて歩き始めるが、今度は背後では無く、斎郎の隣に。そうして、足音に紛れさせるように、「古狸ども、親父が従順だからって良いように使い続けるぞ」と肉垂らしさを込めて吐き捨てた。
「そんで、お前が俺の代わりをやるのか?」
「覚悟はある」
「じゃあ、毒を喰らう覚悟は?」
斎郎は声も目も、嫌に鋭く言い放つ。史郎は思わぬ斎郎の言動に固まって、言葉を返せなかった。
「史郎、古老達は俺を利用しなきゃいけない理由がある」
「毒を飲んだからだろ? 何か秘密があるのか?」
斎郎は悩みながらも「ある」と答えた。
「槐に気に入られたんだ……うんと、
斎郎の脳裏には、今も槐との思い出があった。
藤花の香り漂う深い深い夢の底。
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