第二話 惑い 一

 えんじゅただれた腕に、赤い線が描かれる。ぷっくりと現れた鮮血は伝い流れ、雫となって落ちて行く。ポタリ、ポタリと、一滴づつ落ちて、段々と小瓶が満たされていった。

 順調と言って良かっただろう。槐の眼差しは相も変わらず冷めていたが、役目の一人が斎郎さいろうと知っても、別段に何をする事も無く。嫌悪すら示さず、無関心を決め込んでいるように槐はされるがままだった。


 ――昨日の今日で、どういう変化だ?


 斎郎は疑問に思うも、下手な言葉は口に出来ない。せっかく従順にこちらの指示に従っているところへ水を差したくはないのだ。史郎へと目線をやって、今日は帰ると意向を示し合わせる。満たされた小瓶を手に、一向は座敷牢を出ていった。


 ――あれは、一体どうなってるんだ?


 ◆


 甘い、甘い香りたつ、藤花の夢の花の園。いつもであれば、槐は藤花の夢を肌と目と鼻と肌で味わうだけの時間。

 けれども、今日は違った。


 槐が瞼を開けた瞬間に、藤色の景色が広がる。そこにぽつんとある、異色の黒。藤の太い蔓に背を預け、群生に埋もれてしまいそうな。けれども、決して藤色に染まりはしない。しかし、斑らにある黒い鱗は藤色をうっすらと浮かべて、それがまた男の美しさの一端のようにも思えた。


 藤花すら蠱惑してしまいそうな艶めかしさを醸し出す姿に、槐は目が離せなかった。

 他人は自分の領分を荒らすだけ。そう感じていた筈の心が、今は嘘のように焦がれにも似た感情を抱きつつある。そんな、むず痒い胸の騒めきを抑え込み、槐は叢雲へと歩み寄った。

 ほんの一歩、槐が近づいただけで、ゆるりと黒い頭が動く。金の瞳が槐の姿を捉えて、二人の視線は自然とかち合った。


「よう」


 声をかけたのは叢雲だった。傍まで近づいた槐を招くように、叢雲の腕が伸びる。差し出された手は筋ばっているが、花弁を優しく掬いあげるような物柔らかな手つき。気取らないそぶりがまた槐の胸を疼かせて、槐はそっと左手を添えた。そうして招かれるまま、隣へと腰掛けた槐はまじまじと叢雲を見やった。

 顔色は悪くはない。代わりに昨日にも増して、黒い鱗が艶めいたような気がした。


「身体はどう?」

「もう傷は無いな……だが、出て行く約束はもう少し先にして欲しい。まだ身体が完全ではなくてな」


 槐は心臓がチクリと痛む。そういう約束を最初にしたのは自分で、それが無性に寂しくも感じたのだ。


「……良いの、気にしないで」


 引かれた手を離して、槐は昨日のように鱗へと触れた。昨日と変わらない感触、色味、そして――


「槐、」


 その声が。

 自分の夢でないと確認するように、触れて、見て、耳を澄ませて。昨日の叢雲との出会いが、感じた痛みがしっかりと記憶に残っても、叢雲の存在は揺蕩う夢の如く定かではない。


「槐、どうした」


 叢雲の鱗を無言で触れていたからだろう。叢雲が顔色変えずに、槐の顔を覗き込んだ。端麗な顔つきが間近に寄って、今度は金色の輝きに目がいった。見たこともない色と、人の瞳とは比べ物にならない鋭さを前にして、吸い込まれてしまいそうだった。


「叢雲は、人じゃないのよね?」

「ああ、そうだな」


 落ち着き払った様子で、叢雲は答える。


「どうやって、夢に入り込んだの? 人じゃないから入れたの?」


 槐が投げかけた疑問に、叢雲が身体を藤の蔓へと戻して、思い悩むかのように空を覆い尽くす藤花へと双眸を向ける。しかし、もう次の間には「そうだな」と、言葉を紡いでいた。


「俺は、実体があって無いようなものだから、此処に迷い込んだと言っても良い。もう死ぬものだと思って、必死だったからな。最初は自分が何処にいるのかも判らなかった」


 呆然とその日の事を思い出した目は、どこか憂いて物悲しさが槐にも伝わる。しかし、その相手への恨みは無いようで、鋭い金の瞳から憎悪は見当たらなかった。

 そうやって、また無意識に叢雲を見つめていると、今度は叢雲の手が槐の頬を撫でていた。変わらず優しい手つきで撫でる仕草が、たまらなく心地よくて槐は叢雲に身を預ける。


「お前は、閉じられた場所にいるのだな」

「解るの?」

「何となくだが。それがここへと影響して、孤立した異界を創り出したようだ」

「……そう」


 槐は他人事のように、藤花へと目を向ける。そんな事を言われたところで、自身が閉じ込められている事実は変わりない。此処が異界に似た何かにしろ、夢にしろ、槐にとっては思い入れのある場所である事が揺らぎようがないように。


「しかし、どうして藤なんだ?」


 叢雲も、視線を藤色へとやって、天を仰ぐように徐に手を伸ばした。


「私、本物の藤は見た事が無いの」


 槐は藤色を見つめたまま続けた。


「母が、同じように夢を藤で埋め尽くして、私を招いてくれた。私は母の夢を真似ているだけ。これしか、知らないの」


 母との思い出を脳裏に浮かべて、槐は瞼を閉じた。

 今と変わらず、座敷牢に閉じ込められてはいたが、血を採る時間以外は、夢の中で母と二人で並んで過ごしたのだ。


『私の可愛い子』


 そんな母の優しい声音までもが蘇り、胸が詰まりそうだった。胸が締め付けられるような感覚がして、藤花達がざわつき始める。風も無いのに、嵐の葉擦れの如く。藤花の一つ一つが大声で、槐の苦しみを叫んでいるようだった。

 

 だがそれが、ふつと止まる。

 槐の頭に何かが――優しく、温かい手が何度と槐の頭を繰り返し撫でたのだ。しんと静まり返った藤色の花園へと戻ったそこで、叢雲の優しい手つきを感じて槐は瞼を開いた。

 

 何も言わない金の瞳は、ただ槐を見下ろす。同情ではなく、ただただ優しく、暖かく。

 それが、母とはまた違った心地良さを覚えて、槐は更に叢雲へと身を寄せた。すると、叢雲の腕が槐を引き寄せて、腕の中へと包み込む。

 藤の蔦へと寄りかかっていた身体の上へと乗り上げていた。あまりに急で、槐は声も出なかった。が、嫌ではない。


 物のように扱われる日々を思えば、誰かに触れられているだけでも、その心が満たされたのだ。例えそれが、偽善であったとしても。


 ――私は何て単純なんだろう


 そう感じながらも、槐は心地良さから抜け出せなかった。

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