第二幕 夢の逢瀬

第一話 石清水

 石清水いししみずの里と呼ばれたそこは、古くより酒造りが盛んな里だった。

 その里の更に高峰。そこには長い年月をかけて神気を帯びた大岩がある。神気が強すぎるとの事で、その地に棲む水分神みくまりのかみが割ってしまったという逸話と共に生きてきた里だ。不思議な事に、その大岩の割れ目からは湧き水が流れ出て、それこそが里の名の由来でもあった。

 

 神気の影響か、流れ出た湧き水は如何なる水よりも澄んだ色だった。それが、たまたま酒造りに適していただけ。石清水の里は偶然にもそれを利用して、酒造りを極めた一族だった。


 どんな美酒よりも美味いと評判で、里は高地ながらも潤いがあり、穏やかで活気に満ち溢れた里。そんな里に、ある日突然一人の翁が何処からともなく現れて言った。

  

「この清水の神気を扱うとは恐れ入る。神気を下手に扱えば、山をも飲み込む毒を放っただろう。しかし、この里の酒はこの世のものでは最高の味わいだ。この酒で、幾人もの神々が舌を巻いておる。どれ、この清水と、そなた達の技術を持ってして、特別な酒を作ってはみないか」


 翁は、自身が神の御使いであると告白すると続けた。


「ある地方にて、人喰いと化した鬼がいる。このままでは鬼は力をつけ、被害は広がるばかりだ。そなた達であれば、この酒の美味さを保ちながらも鬼をも殺す毒にもなり得る酒を造る事が出来るだろう。どうだ、試してはみないか」


 里の者達は顔を見合わせる。しかし相談するまでもなく、翁の言葉を受け入れていた。神に使命を与えられたのだと解すれば、迷うことなど無かったのだろう。

 こうして、石清水の里の一族は鬼をも殺す酒――『神便鬼毒酒じんべんきどくしゅ』の手法を賜ったのだと伝えられている。


 ◇


 今も尚、大岩からは清水が湧き出続け、石清水の里には伝えられた毒酒造りが続いてる。その術を受け継いだ末裔の一人が、斎郎さいろうだった。

 しかし今るのは、過去の偉業が霞みそうな程に草臥れた姿だ。斎郎は蔵人くらびとの一人であり、酒蔵の杜氏とうじを担う。里ではある程度の権威があるのだが、背を丸めて上りかまちに腰掛ける姿は更に十歳程歳をとってしまったかのようで、今はそれも想像し難い。

 

「はあ」


 疲れと共に陰鬱な息が漏れる。そのまま上り框に沈み込んだ腰は、一向に起き上がる気配はない。そうして懲りずにもう一度、誰に向けるでもない大息が漏れた。


「酒蔵の様子を見にいかねぇと……あと、太一たいちの毒の確認をして……」


 斎郎は溜まった疲れから抜け出そうとして、今日するべき事を連ねて口を動かした。そうして最後に嫌々、「槐のところに行かねぇと」と呟く。

  

『お前がやれは良いではないか。昔は上手く丸め込んでいたのだろう』


 そうすると、今度は古老達との会話が脳裏に過ぎって、考えすぎた頭が頭痛でも起こしそうだった。

 

 ――簡単に言うよなぁ……


 古老ころう達の命令が斎郎には重荷でしかなかった。杜氏という蔵人のまとめ役に加えて、ご機嫌取りだ。ただの女であっても、斎郎では些か歳を取りすぎているというのもある。が、それ以上に槐の機嫌を損ねずに血を採るか。名案が何一つとして浮かばないのもあった。

 斎郎とて、若者にばかり重要な毒の採取を任せてばかりもいられないと考えている。しかし、斎郎が触ると槐は嫌がるのだ。その証拠に、斎郎が部屋に足を踏み入れただけで睨みを効かせる。杜氏という役目さえなければ、斎郎はとうの昔に仕事を投げ出していただろう。

 そんな泥濘にでもはまったかのように気が滅入りそうになって、斎郎はパンと膝を叩く。気持ちを入れ替えようと、なんとか勢い良く立ち上がった。が、顔はやる気とは程遠い。それでも、よっこらと足を動かして、まずは毒の確認だと呟いて酒蔵へと向かっていった。

   

 ◇


 酒蔵というには、少々小さな蔵。その大戸を開くとじめりとした空気と、甘い匂いが斎郎の鼻を突き抜けた。

 花の蜜のように甘いが、嫌に不安になる香り。斎郎は毎日のように嗅いでいるが、それでも毎度匂いが纏わりつくような気がして気分は重たくなった。

 蔵の中は静かだったが、蔵の入り口近くには小刀の役目を担っていた男が腕を組んだ姿勢で待ち構えていた。入ってきた斎郎を今か今かと待っていたのか、やたらと強い眼差しを寄越す。その強い気迫は、斎郎が是と言う間もなく話し始めた。


、太一は駄目だ。もう御役目おやくめは無理かもしれん」


 斎郎は自身を父と呼んだ――息子でもある史郎しろうへと疲れたままの面差しを向けた。若く、勇ましい口は、指を失った男を慮る様子はなく、単純に駄目になったと吐き捨てる。容赦のない口振だが斎郎にとってはあっさりと見限られた事が羨ましくも思えた。 


「まあ、仕方がない。あまり槐を不快にさせると、余計に面倒だからな。暫く休ませて、の仕事に割り振ろう」

「それで、四ツ家は何をしろって?」

「俺がやれば良いだろうと。あれらは槐の危険性をすぐに忘れる」

「他に手はないのかよ」

「毒酒を作り続けるのは、お上の命令だと」

「そうじゃなくてよ」

「……一番簡単なのは、槐をほだす事だ。が、難しいだろう」


 斎郎は草臥れた顔のまま、史郎の背に隠れていた作業机へと近づいた。椅子を引いて腰掛けたなら、机の上には小瓶が一つ。中身は先程採取したばかりの毒だ。木栓もくせんで蓋をした上に、まじないが書かれた封がされて管理は厳重にされている。

 斎郎は封に手を翳して一つ頷く。作業台の引き出しからお猪口を一つ取り出して、封を切って中身を垂らせば、紅い――血が滴り落ちた。


 凡そ槐の機嫌にもよるが、血は一日から三日おきに採取する。槐の憤懣は今にも弾け飛びそうで、一日一度を続けるとなると一体どうなる事やら。そんな悪態を胸中で呟きながら、お猪口をくるくると回して中身を揺らした。そうすると、斎郎の鼻には濃い花の香りが漂う。酒蔵に溜まった匂いよりも余程濃い花の匂いが嗅覚の全てを埋め尽くす。それを勢い付けて、斎郎は一気に口へと流し込む。味を確認するように舌の上で転がして、最後はごくんと喉を鳴らして飲み込んだ。


「うん、問題無い」


 そう小さく呟いて史郎を見ると、父の所業が異常とでも言うように顔を顰めて嫌悪感を含んだ眼差しを向ける。毒を平然と飲み干す父の姿は何処か受け入れ難いところがあるのか、姿勢は一歩引いていた。

 

「真似はするなよ」

「できねぇよ」

「これも、使って大丈夫だと伝えてくれ」

「ああ」


 史郎は返事をしたが、一向に動く気配はない。斎郎が「どうした」と問うと、胡乱な目で斎郎を見やった。


「なあ、親父。俺はいつ後継になれる」

 

 後継としての責任感故か、史郎は斎郎には無い強きな姿勢で訴える。それが、斎郎は純粋に羨ましくもあったが、重積を思うと重い腰は上がらない。度重なる重圧とで、キリキリと胃が締め付けられるようだった。

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