第三話 鱗

 かつて、酒呑童子しゅてんどうじと名乗る鬼を殺す為に造られた酒がある。

神便鬼毒酒じんべんきどくしゅ

 その名の通り、鬼が呑めば毒となる。


 ◇


「また、一人負傷したようだな」


 老齢と思しき男の声が広くは無い一室で、嫌味たらしく響いた。

 小さな里の中では一際大きな屋敷。その一角で、四人の老人と中年に差しかかった男がひたいを集めて何やら相談事だろうか。しかし、皆顔つきは芳しくはなく、その中でも一際若い一人は項垂れるようにして、自身の膝の上に置いた握り拳を見つめていた。


斎郎さいろう、これで何度目だ。慎重さに欠けているのではないか」


 声音は冷静だが、どこか叱りつけている様子だった。斎郎と呼ばれたのは、槐の血の採取を指示していた男だ。が、その一室の面々の前では一番若く立場も弱いのか、下座に座らされている。畏まった姿勢で頭を下げて、喉から出た最初の言葉も謝罪のそれだった。


「申し訳ございません」

「それで、様子は」

「毒が付着した指は落としました。毒の進行はもう無いでしょうが、槐を恐れてもう使い物にはならないかと」

「指を二本落とすとなると恐ろしいやもしれないな」


 老人の一人が軽々と笑った。斎郎は苦渋に満ちる胸から何かが漏れそうになるのを堪えながら、膝の上に乗せていた拳を殊更に強く握り込む。


 ――自分達は槐が恐ろしくて部屋を覗きもしないのにな……


 そんな悪態を胸中に抱え、それでも斎郎は自身の立場を思うと堪えるしか無かった。斎郎が今対面している四人は四ツ家よつやの者達。里の中心人物でありまとめ役。長者として、里交易を全て担っている者達でもあった。


「お前がやれは良いではないか。昔は上手く丸め込んでいたのだろう」


 またも、誰かが軽く斎郎に言った。


「おおそうだった、を掌の上で転がしていたではないか」


 同調する声が上がって、斎郎は喉を音を立てて唾を飲み込んだ。老人達の言葉が胸に突き刺さったのもあったが、斎郎の過去の傷を抉り、責務を責め立てるものでもあったからだ。だからと言って、もう何人も槐の毒にやられているのも、また事実でもある。


「……承知しました」


 喉の奥から絞り出したような震えた声を晒して、斎郎は顔を隠すようにして深々と腰を曲げた。


「では頼んだぞ、また依頼が入った。今は都に妖や鬼が多く溢れているそうだ。もう直に酒造りの時期。決して一年枯らす事がないように、十分な量を用意せよ」

  

 追い打ちを欠けるような言葉が次々と飛び出して、斎郎は恐ろしくて顔を上げられなくなった。いや、顔を上げていなくて良かったと――安堵したと言った方が正しいだろう。

 老人達が浮かべているであろう卑しい笑みを見なくて済んだのだから。


 ◆◇◆◇◆


「あなた、どこから来たの?」


 を終えた鱗の男を前にして、槐はふとした疑問を投げかけた。

 これ以上ないくらいに血を吸われて、何となくだが身体が重い。だらりと鱗の男の右隣へと寝そべった姿には、もう警戒心は何処にも見当たら無かった。出て行って欲しいと言った言葉すら霞そうな……そこまで男のことは不快に感じていなくなったのもあっただろう。何気ない疑問をする程度には、男に興味を持っていた。


 そんな警戒心の無い槐から発せられた言葉に、助けられた礼の一つなのか、鱗の男は不快な様子ひとつ見せる事なくさらりと述べた。


「判らない。殺されそうになって逃げて……気が付いたら此処に居たんだ」


 だから傷だらけだったのかと、槐は納得する。

 

「悪い事したの?」

「した……のかもしれない」


 男は濁したような口振で答えた。


「してないの?」

「……まあ、人間から見たら、俺は悪意ある存在だったんだろうよ」


 鱗の男は投げ槍に答えて、槐へと身体を転がした。頭を右腕で支えて、頬杖ついて微笑む。それだけでも男は艶めかしく、槐の心は小さく高鳴った。


 生気を失いかけていた姿は消えて、もう口の周りに赤みもない。とても血を啜っていた姿とは思えず、美しいが精悍な姿に槐は及び腰になる。けれども、鱗の男との距離が近づいて、それまでなんとなしにある程度の認識だった黒い鱗へと目がいった。

 

 鱗、と言っても槐は本物の鱗を見た事がない。昔見た図譜ずふの中に鱗持つ生き物がいたな――程度に思い出した記憶で、鱗と思っただけなのだ。だから、毎日見飽きた人間の部分よりも余程それが気になる。男が槐に遠慮なく触れたように、槐もまたまだらにある鱗へと手が伸びた。


 男がだらりと放り出したままになっていた左の上腕を覆うようにして、黒い鱗が連なっている。それに、槐はそっと指先で触れた。

 冷んやりとして、肌の体温のようなものが感じられず、そして硬い。


 ――魚……それとも蛇かしら?

 

 そんな他愛も無い事を考えながら。するりと鱗が流れる方へと指を滑らせると、硬いがつるつるとした感触で、それが無性に心地良くて何度と繰り返す。


 そうやって暫く遊んでいると鱗の男と目が合って、槐の手が止まった。男は嫌がるでもなく、鱗で遊んでいる槐よりも余程楽しそうに「楽しいのか?」と笑って言った。


 楽しい。普段、何もする事がない夢の中の変化が、槐には単純に楽しかった。だからか槐は素直に頷いて、目線は鱗へと戻ると再び指を滑らせる。

 男はまた、黙ったまま槐の好きにさせ続けた。しかし、何か思いついたように口を開いて、「お前の名前は?」と尋ねる。


えんじゅ……あなたは?」


 男は静かに答える。


「……叢雲むらくもだ」


 そう呟いた男――叢雲の声色は、現実を生きる誰よりも優しく感じた。



 第一幕 藤花の夢路 了

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