第二話 稀人

 ◆


 瞼を閉じた暗闇の先にある、小さな藤の園。甘い香りが漂い、藤花咲き乱れる夢の中。けれども、槐は本物の藤花を見た試しがない。偽物の……まやかしと知りながらも藤の夢に身を預けるのは、現実から逃げたいばかりだからだろう。座敷牢に閉じ込められ、逃げる事も叶わない。


 ――此処から出たくない


 虚しさばかりの願いを込めながら、槐は何度と藤花の夢を見る。一人、ゆらゆらと夢に浸り、溺れるように。



 どれだけの時間が過ぎた頃か。槐は奇妙な感覚に襲われた。なんと言葉に表せば良いか。突如気配が現れたような……夢に、遺物が入り込んだような感覚だった。


 ――何だろう……


 槐は寝そべっていた身体を起こして、辺りを見渡す。招いてもいないのに、異質な気配を感じた事は初めてだった。


「ねえ、誰?」


 槐は立ち上がる。藤花ばかりの気配の中、異質な気配と匂いを辿って視線を彷徨わせて根元を辿った。姿は見えない。けれども、藤花がささめく声が大きくなり、槐は耳を澄ます。


 藤花達の声に従い、槐は歩いた。心なしか、辺りを埋め尽くしていた藤花も減っているようで、視界は良好。槐の為に道を指し示しているのだろう。同時に、藤花の夢路では嗅いだことの無い匂いが鼻腔を掠め始めた。


 ――雨の匂いがする……


 そうして藤達に案内された先で、槐は息を呑んだ。目に飛び込んだのは、藤の太い蔦に背を預け、瞼を閉じて死人のように動かない一人の男。

 槐は身構えた。男というだけで、条件反射から身体が固まってしまって近づけないのだ。ただ、男の妙な姿に目は離せなかった。


 普段、槐の血を採取する男達とは桁違いに美しいというのもあった。濡れたような黒い長髪も、藤色の中では良く目立つ。だが、それ以上に奇妙な姿に目を奪われた。

 確かに背格好は人間のそれと変わりない。来ている着物も、特段に良いものというわけでも無かった。けれども全身の所々、左頬や左腕には黒い鱗が斑らに張り付いて、明らかに人では無かったからだ。


 ――どうしよう。出ていって欲しいけど……そもそも、生きてるの?


 他人の気配が近くにあると落ち着かない。そう感じるのは、藤花の夢は槐にとって最も大切なものだからというのもあるだろう。自分の夢に介入されたという事が何よりも不快に感じて、しかしどうやって追い出すかは思いつかなかった。

 どうしたものかと思案して、槐は一つ息を吐いて気持ちを落ち着かせると、そっと鱗の男へと近づいた。

 そろり、そろりと。普段の男達よりも余程慎重な足取り。ゆっくりと近づいて、男の傍へと腰を下ろす。とりあえずは生きているかを確認しようと、鱗の男の口へと左手を当てようとした。が――槐の手は、男の手によって掴まれていた。


 男の眉がぴくりと動いて、薄く開いた瞼の下から現れた金色の瞳が槐を見やる。しかし、男の力は弱々しく槐へと視線を寄越すので精一杯の様子だったようで、それ以上は動こうとはしない。掴んだ手も、今にも離れてしまいそうだった。

 そんな鱗の男の姿に、槐は同情はしなかった。人は死ぬものだし、この男が何をしたかも興味もない。ただ、このまま此処で男が死に絶えるなど気分が良いものではない。さて、どうしたものか。

 そうやって悩んでいると、低い、呻き声とすらとれる掠れた声が男の唇から漏れた。耳を傾ければ、藤花のさざめきとは違いはっきりとした意味のある言葉だ。とりあえず、意思疎通が可能なようだと安堵して、槐は言葉を聞き取ろうと男の口元へと更に耳を寄せた。


「……助けてくれないか」


 そう聞こえたような気がして、槐は聞き返す。


「助けたら出ていってくれる?」


 男は、ほんの僅かに首を縦に動かし頷いた。しかし、助ける術が思いつかない槐は、再び「どうやって」と問いかける。男は躊躇わず、


「血が必要だ」

 

 そう答えた。此処は夢の中だ。けれども血は――


「私の血、毒って言われてるの……死んじゃうかもしれないわよ」


 槐の答えは辛辣だった。槐の血。本当に、自分の血で誰かが死ぬ所をその目で見た事は無い。けれども、今までに何度となく、お前の血は毒だと教えられてきた。だからか、もしかしたらと考えが過ぎって素直には勧められなかった。


「……それならば、俺がそれまでだったというだけだ」


 鱗の男の答えは潔いものだった。しかし、槐の話を信じたのかどうかまでは読み取れない。槐は一言、「そう」と男の言葉に納得して、差し出したままになっていた腕へと目線を落とした。


「腕を切る道具は無いの。そのまま噛みついて良いわ。どうせ傷だらけだから」


 まだ、朝の傷が鮮明に残ったままの左腕。細くて、生白いそれには夢の中でも、槐が現実で見たままの爛れた腕が現れて、思わず目を逸らした。

 槐の様子に鱗の男が気がついたかどうか。男は言われるがまま、槐の腕をそのまま口元へと引き寄せる。大きく口を開くと鋭い牙が覗いて、ぶつり――と、容赦ない音を立てた。牙は容易に槐の皮膚を貫いて、槐は腕に小刀以上の痛みが迸った。


「いっ……」


 それでも良いと言った手前か、槐は瞼を強く閉じて耐えた。小刀で切る何倍もの痛。傷口は異常に熱く、牙が圧迫するからか腕には常に鈍痛がある。ごくり、ごくり――槐の男の喉へと流れ込んで行く音ばかりが槐の耳を侵して、だが時に熱い息が腕に艶かしく降りかかる。槐の腕を掴む手は逃すまいとしているように次第に力強くなり――やっと男の口が腕から離れた時には、槐はほっと息を吐いて弱々しく瞼を開いた。


 男は口を赤く染めながら、空を埋め尽くす藤花へと目を向けていた。いや、男の目線はただ上を向いていただけだったのかもしれない。悦に浸ったように顔を上気させ、男は殊更に熱い息を吐く。それから一言、「甘い……」と呟いた。

 だがもう次の瞬間には、槐へとしっかりと見開いた双眸を向ける。毒を喰らったとは思えない力強い金の瞳。槐はその眼光から目を逸らせなかった。


「礼は必ずする。もう少し貰えないだろうか」


 もう、鱗の男の声は掠れてなどいなかった。男から弱々しさは消えて、けれども無理矢理、喰らいつく事はない。それが労りにも思えて、槐は頷いた。

 そうなると、男の行動は早かった。再び牙を立て、しかし最初ほどの焦りはない。じっくりと甘露な蜜でも口にしたかのように、槐の血を味わっていた。

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