藤花幻夢の御伽鬼譚

第一幕 藤花の夢路

第一話 血

 甘い香りと、藤紫。春にも似た心地が、女の身体を包み込んだ。

 

 どこを探せど陽光は見当たらない。天は覆い尽くされ、視界は全て、甘い香りの源である藤の花。その藤花の群生から、ひらひらと舞い落ちる藤色の花弁。それが行き着く先は、白い柔肌の上。耳をすませば、ざわめく藤花達の話し声も聞こえてくる。

 

 女の全身は、全てを染め上げるの花へと預けていた。藤に埋もれている、と言っても良いかもしれない。

 もう今にも、伸びた蔦が黒く艶めかしい長い髪を絡め取ってしまいそうな。垂れ下がる藤の花に覆い被さられてしまうような。藤色の敷物を思わせるように敷き詰められた藤の花弁が、寝転がる女の肉体を丸々と飲み込んでしまいそうな。深くも濃い藤の気配が辺りを支配した。

 まるで、藤の花が生命力のままに意思を持って動き出して――、そんな異質な気配が藤の花にはあった。


 幻怪げんかいな藤の花に囲まれていても、女は平然とその場で藤の花を見つめ続けた。

 藤色の敷物の上に放り出したうら若い女の肢体は、薄墨うすずみ色に燻んだ着物の内に隠しながらも、今にも藤色に染まってしまいそうな程に弱々しい。

 けれども時折、女の口からは、「ほう」と熱い吐息がこぼれ落ちる。薄く開いた唇の隙間からは、既に藤の花の一部であるように、甘い藤の香りを漂わせた。

 

 そうやって、女は藤色の景色を見つめたまま、死人のように眉の一つも動かさなかった。だが、ふと思い立ったように無作為に投げ出されていた腕がゆっくりと持ち上がる。

 それと、同時。女の思考を読み取ったとでもいうように、藤の花達がさざめき合う。ざわざわと花同士が擦れ合っているようで、しかし誰かが小声で会話でもしているような。


 細く、白い指先が藤の一房に触れた、その時だった――


 ◆


 景色が一転した。

 瞬きの感覚にも似ているだろうか。いや、女は瞬きのひとつもしていなかった。けれども、もう藤の甘い香りも、藤紫の群生も、ささめきも――花弁ひとつ残ってはいない。

 春という言葉は霞の彼方へと消え去って、上方の明かり取りの小窓から朝方特有の冬にも似た冷気が入り込む。

 

 伸ばしたままになっていた腕の――視線の先は、それまでに存在しなかった平板の天上。その木目を目線でなぞらえていけば、ほんの先程まであった筈の藤花の景色の代わりに現れたのは、僅か四畳半程度の広さを仕切る古びて黒ずんだ格子。

 その格子が目に入ると、女は顔を顰めて顔は仄暗く翳った。格子の存在が、ここが現世だと知らしめて、自分が座敷牢に居るのだとも思い出させたのだ。


 格子とは反対側――壁側の天上の直ぐ下にある小窓から入り込む光と、微かに聞こえる鳥の囀りが槐に朝だと告げる。それまで無垢だった表情が途端に苦悶に変わる。伸ばしていた手を引っ込めて、薄っぺらい布団の上に放り出した身体はより力無く、格子に背を向けるようにして身を縮こめた。


 そうして間も無く、格子の向こう側で物音がし始めた。誰かが――複数人の気配がして、女の気分が重くなる。人の気配に気づかないふりをして、身体を丸めたまま起きあがろうともしない。けれども耳だけは様子を伺って、どんどんと近づく足音に耳を澄ませる。音が近づけば近づくほど、女は緊張で身体を強張らせていた。


 すうっ――と、襖の開く音がしたが、それでも女は姿勢を変えなかった。畳の上を複数の足音が横柄に踏み鳴らす。が、それも座敷牢の前まで来ると止まった。


「……えんじゅ、起きているのだろう」


 女を槐と呼ぶ、低い男の声が狭い室内に充満した。その声が殊更に気に食わない様子で、女――槐は狸寝入りを決めこもうかと思ったが、仕方なくほんの少し首を動かして、流し目でじとりと背後の格子を見やった。


 細身で四十路頃の暗い面持ちの男が、無にも等しい顔つきを槐に向けている。どんよりとした眼は、槐が見せる態度にか、今にも悪態でも吐露しそうだ。が、堪えるように唇を引結んでもいた。


「どうせ、嫌って言ってもやるんでしょ?」

「ああ、我慢してくれ」


 男は淡々と返すだけだった。そうして、もう何かを諦めた様子で背後に控えていた者達――四人の年齢様々な男達の内の若い二人へと指示を出した。ガチャリ――と、先頭に居た男の手で格子の入口の鍵が外された。無遠慮に入ってくる二人の男に嫌悪しながらも、槐は身体を起こす。


 ――ああ、嫌だ


 一人の男は、木栓で閉じた小瓶をひとつ。もう一人の男の手には小刀が握られて、刃が鞘から抜かれるよりも前から顔に嫌悪が滲んだ。鞘から抜かれた刃先が、淡く光る。良く研がれた鋭利なそれは、何度となく味わった痛みを想像させて、けれども槐は顔を歪ませながらも左腕を、おずおずと指し出した。


 今から何が起こるかを既に知り得た上で怯える槐とは違い、日常の一つとして淡々と作業をこなしていく若い男二人。側に槐を囲い込むように膝をついて、小瓶を持った男が槐の差し出された袖を捲れば、白い柔肌が露わになる。そこには幾つもの傷が目立った。何度も、何度も繰り返し、同じ箇所を傷つけているのだろう。傷が治りかけてはまた傷つけられてが繰り返して、肌が爛れてみみず腫れのようにこんもりと盛り上がる。


 昨日の傷がまだ、真新しいとすらおもえるほどに爛れてしまった肌。そこへ一方の男が押さえつけ、小刀を持った男が膨れ上がった傷跡に刃を当てた。


 すうっと、こなれた手付きで線を引く。鋭い痛みと共に、ぷつりと、赤い雫が浮き上がる。腕を押さえつけていた男が血を絞り出すように傷口の横を押さえて、小瓶の中へと垂らしていった。


 ぽたり、ぽたりと、赤い雫が落ちていく。


 槐は、雫が――自身の血が流れていく様を目で追って。しかしそれも直ぐに飽きて、目線を若い男二人へと向けた。手つきが小慣れた男二人は、作業を軽んじているのかと思えば、殊更慎重に血に触れないように作業する。


 そうして今度は、格子の向こうで待ち構える男三人へと視線を流す。その顔も恐々として、事の次第を固唾を飲んで見守っているのだ。


 ――を、こんなにも怖がるなんて……


 槐はつまらないものでも見ている気分だった。あまりにもつまらないので、冷めた視線を自身の腕に戻す。

 赤い、真紅にも近い鮮血が、ぽたり、ぽたりと零れ行く。小瓶一つを満たすが為に。


 若い男二人の緊張は嫌でも槐に伝わって、最後の一滴を流し込むまで続く。漸く一つの小瓶が一杯になって、気が抜けたふとした拍子だった。


 小瓶の役目だった男の右手の親指に――紅い雫が一滴、滴り落ちた。

 小瓶を慎重に支えていた緊張ばかりだった男の顔が、途端に絶望一色にひずんだ。ほんの一滴で、この世の終わりでも見たかのように狼狽る。終いには、ガタガタと身体が震え始めたものだから、隣にいた小刀を持った男が慌てて小瓶を取り上げた。


 男達は慌てふためき早く手当をと大声で騒ぎ立てる。今にも死に顔でも晒しそうな程に青褪めた男を担いで、一行は出ていってしまった。

 嵐でも過ぎ去ったようで、しかし鍵はしっかりとかけて、だが。


 ――馬鹿な人達、そんなに私が怖いのかしら……


 槐は消えた者達を冷たい眼差しで見送って、戻した視線は血が止まり始めた傷口へ。うっすらと残った鮮血を指で拭って、唇へと押し当てるようにして舐めてみる。


「……血の味」


 槐の舌の上に転がったのは、だった。

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2024年10月1日 12:00
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藤花幻夢の御伽鬼譚 @Hi-ragi_000

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