歌に澄んだ響きがあり、見るというよりは聴く連作という感じがした。
それはおそらく一番最初に置かれた
・湖心へとむかふ心臓捧げもつをとめよ白くほそき項よ
の「よ」の連続に打たれた結果そう感じたのだと思う。
「湖心へと」「むかふ心臓」「捧げもつ」「をとめよ白く」「ほそき項よ」……。
「湖心へと」と静かに、すみやかに始まる歌は「むかふ」「捧ぐ」「持つ」(「捧げ持つ」は一語か)
という動詞が細かくリズムを刻む。
そして「をとめよ」と一つ目の「よ」が大きな頂点を成す。
しかし「をとめよ白く」という七音に組み込まれた「よ」は既に次の流れを用意している。
そして「ほそき項よ」! と結ばれるのだ。
音韻の面にハマりこんでしまうと歌意について書かなくなってしまう。
これは一体なんの歌なのだろう?
「心臓捧げ持つ」とあるが、
例えば〈皿に載せた心臓を掲げるようにして持っている〉
という解釈の一方で
〈普通に生きている限り体内に持っている心臓を「捧げ持つ」と表現した。そこには「これから生贄にされる」あるいは「心臓を捧げ神の言いなりになる」という含みがある〉と解してみるのも面白いのではないか。
「白くほそき項よ」とあるが、不思議と想起されるのは「白くほそき」「をとめ」の行列なのは私だけだろうか。
ああそうではなくて、「項」とは首の後ろなのだから
「神によっていつでも斬り落とされる」という意味か。
やはり生贄の歌として読めてしまう。
もう一首
・鴉からす歌へば響きわたるとふやがて無垢なる羽根ぬき去るとふ
「鴉からす」という頭のリフレーンで「なんだこれは」と思わせる。
無論それくらいのテは誰でも使うのだが、どうも端正な歌が並んでいる中で「ド頭のリフレーン」をカマされるとびっくりするものである。
いや、「鴉からす」と書き分けたのも案外効いているかもしれない。
この歌も「とふ」を重ねており、シンプルながらも天上に突き抜けていくかのような澄んだ響きがある。
「響き・渡る・とふ」と「ぬき・去る・とふ」と動詞二連発(あるいは複合的な動詞一発)に「とふ」が付くのも綺麗だ。
「やがて無垢なる羽根ぬき去るとふ」とはなんだろうと考える。
単純に「真っ黒なカラスだって一生懸命歌っていればいつか真っ白な(無垢な)羽根を生やせるのだ」という感動的な歌とするのは少し素直すぎる。
「黒いカラスも老化して白っぽくて薄く透いた羽根(無垢なる羽根)を生やすことになる」という白髪みたいな発想か。
単純に伝説や神話などに「元ネタ」があるのかもしれない。
やはり音韻の方に惹かれる。
この歌は冒頭のリフレーンといい、シンプルな「動詞二連発に〈とふ〉」の繰り返しといい、とにかくシンプルな構造だ。
その不器用な作りが「鴉」的な醜さ、不細工さを連想させる。
歌と「鴉」は一体となる。
そこに「やがて無垢なる羽根ぬき去るとふ」とくれば感動してしまう。
不器用な歌が「やがて無垢なる羽根」として「ぬき去」られる様を夢見ている。
〈短歌とは歌人が抜き去った羽根なのだ〉という比喩を読んでも良い。
「ぬき去る」のもつ一抹の寂しさは
「歌人」と、その感性を長く保存するカケラとしての「歌」の関係が持つ寂しさと似ている。
シンプルな歌だけを二首抜き出したせいで「枯れた美しさ」という印象になった。
このシンプルさで勝負できる歌人は相当に上手い。
『万葉集』の歌などを引っ張り出して読む時に感じるような根源的な呪術性すら持っているのではないか。
『万葉』の歌はなにやら器用に出来ている歌ばかりが取り上げらがちだが、
やはり不器用な歌ゆえの押しの強さ、情念の呪術性に魅力がある。
しかし連作内の歌はバラエティに富んでおり、また別の側面を抽出することができるだろう。