カラーフール

平賀・仲田・香菜

カラーフール

 僕の世界は色が陳腐すぎる。

 プラモデルに色を塗るとき、世界がモノクロになったのではないかと錯覚するときがある。正しい色の置きかたが驚くほどにわからなくなるのである。

 目を瞑って置きたい色をイメージする。頭の中では自然に、鮮やかに見えた色使いは白日に晒せばこうも劣化するのは何故か。

 著名な絵画やコンテストを取ったプラモデルを見ると、どうやったらこの色を見ることができるのか、どうすればその色を表現できるのか。世界の色を知り、自分の限界もまた、知る。

 目を開くと、僕の目の前に広がるのは真っ白なキャンパス。という名の補講プリントである。数学、物理、英語のトリプル。白い三連星とも僕は比喩する。

 世間は夏休みにも関わらず、わざわざ僕が高校に来てまで、たった一人で補講プリントをやる羽目になっているのか。それはプラモデルに起因する海溝にも匹敵する深い事情がある。

 新作プラモデルの発売日と期末テストの日程が被ればこうもなろう。高校入学初めての期末だが、これは致し方のないことである。

 優先すべき事柄は何か。心に問いかけた結果がこれである。進めば二つ。無事入手した新作プラモと補講。あれ? 実質一つしか手に入っていないよ水星マザー?

 とにかく唯一手に入ったプラモは少し手を入れたが、今も鞄に入れっぱなしだ。もちろんこれにも理由がある。補講のプリントなどブッチして教室で作ろうと画策しているのである。

 折角の夏休み、素直にプリントに取りかかるとでもお思いか。幸いなことに見張りの先生はいない。プリントが終わったら職員室に持ってこいとだけ言い残して早々に立ち去ってしまったのだ。なんともズボラで都合のいいことよ。

 プラモ製作といっても素組みは既に完了、清浄もサフも終えている。後は塗装をするだけである。予算の都合上、僕はエアブラシを持っていないため基本は筆塗りだ。まあ、教室でエアブラシを振り回すほど僕は傾奇者でもないわけだが。

 机の上に塗料ボトルとアルミ皿を広げる。机が汚れないように新聞紙でも広げたいところだが……幸運なことに三枚も手頃な紙を机に発見した。ご都合展開とはこのことか。

 夏の午後、教室にシンナーの臭いがこもる。



「ハカマダくん、何してるの?」


 突然上から降ってきた声に動揺し、思い切りキャンパスを筆がはみ出す。数学のプリントが鮮やかにマゼンタで染まった。

 先生に見つかったか、と焦って顔を上げるがそれは杞憂だった。声の主はシノダさん。クラスの女子である。薄い銀の丸い眼鏡と、一つにまとめた三つ編みが品行方正さを証明する。クラス委員長とはかくありきといった見た目をしている彼女だが、実際もそうである。


「なにって、プラモに色を塗っているだけだけど」

「補講を受けにきたのでは……?」

「まあ、そのうちやるよ。シノダさんも補講? 意外だね」

「テストの日に風邪ひいちゃったの」


 僕のように阿呆な理由ではなかった。シノダさんは真面目にプリントをやらない僕に少し困った目を向けている。


「ハカマダくん。模型部とかには入ってないの? プラモを作るならせめて部室で……」

「模型部は部員不足で今年から同好会に格下げ、部室は取り上げられたらしいよ。ちなみに会員は僕だけ。部にするには三人必要なんだってさ」

「もう、だからって教室でこんな……」


 シノダさんは呆れたようにプラモのパーツを手に取った。それは塗料がすでに十分乾いた盾パーツだった。コバルトブルーで縁取られた塗装はむら無く上手に濡れたとちょっとだけ自信作の一品だ。

 高校生にもなってこんな、などとお小言の一つでも飛び出すのかと思いきや、シノダさんの口から溢れた言葉は意外なものであった。


「綺麗……これってアクリル?」

「そうだけど、よくわかるね」


 美術部員などであれば発色などから判断できるのかもしれないが、シノダさんは部活に所属していなかったと記憶する。

 シノダさんは得意気な様子で僕に両手を差し出してきた。最初、僕は彼女の意図がわからず困惑もしたが、蛍光灯の光を反射する爪の存在に気が付いた。薄っすらとピンク色に光る爪の存在はさり気なく、注視しなければ気が付かないほどだがその上品さには目を奪われる。


「マニキュアしてるの?」

「そう、綺麗でしょ?」


 僕はネイルに詳しくはないが、塗料にアクリルを使ったものがあるということくらいは聞いたことがある。シノダさんもその繋がりで理解に及んだのだろう。


「シノダさんもネイルとかするんだね」

「だって綺麗じゃない? 爪が綺麗なだけで女の子は気分が上がるものよ」


 そういうものか、と僕は適当に納得する。


「ハカマダくん。プラモデルの色はどうやって塗るものなの?」

「えーと。汚れを落として、下地を塗って、色を乗せる感じかな」

「やっぱり! ネイルとやることは一緒だね」


 ふうん、そうなのかと僕はシノダさんの意外な喰い付き様に納得した。


「ところでハカマダくん。ちょっとお願いを思いついてしまったのだけれど……」


 いったい何であろうか。別に僕にできることならばかまわないのだが、補講はどうするのか。僕はともかくとして。


 ーーー

 ーー

 ー


 夕暮れ近く、蝉の声は既にヒグラシ。黄昏色に教室が染まるころ、僕はシノダさんの生足を手に持っていた。セーラ服姿のシノダさんは椅子に腰掛け、僕は彼女に跪く形である。紺色の靴下は机の上に丁寧に畳まれている。傍からみればあまりにも倒錯している光景なことは否定できない。

 シノダさんのお願いとは、足にペディキュアを塗ってほしいというものだった。足に塗るマニキュアはペディキュアというらしい、初めて知った。ちなみに補講のプリントは彼女の手引きにより早々に終わらせられた。

 僕の塗装を見初めての依頼とのこと。足にペディキュアを塗るのはとても大変なことらしい。確かに足の爪を切るのも体が硬いと大変なのに、繊細な作業となればそうもあろう。

 シノダさんが僕に渡したペディキュアはルビーのように燃える明るい紅色のものだった。ともすると地味な印象を持つ彼女だけに、その選色は少し驚いた。

 差し出された右足はじんわりと汗ばんでいる。冷房の効いた教室とはいえ、真夏日ならば自然なことかもしれない。シノダさんの足は人肌に温かく、肉付きは健康的だった。ふにふにと柔らかく、角張って硬い男の足とは随分と違うように思える。

 緊張で呼吸が少し早くなる。女子の足を触る経験も、人にペディキュアを塗る経験も初めてだからだ。大きく息を吐き、鼻から酸素を取り入れようとすると、少しばかり汗のような臭いを感じてしまう。僕は思わず顔を下に向ける、急に恥ずかしさが勝ってしまったのである。

 呼吸を落ち着けて顔を上げると、シノダさんの顔もペディキュアの紅に負けないくらいに赤く染まっていた。

 丁寧に、慈しむように。十の作品を塗り終えると、僕は達成感と疲労から床に寝転がる。

 シノダさんとくれば座ったまま足をピンと伸ばし、まじまじと指を観察している。地面からの目線ではスカートの中身が目に入りそうで、僕は思わず転がって壁を見つめていた。

 十分な時間をおいて塗料が乾くと、シノダさんは靴下を履いてしまった。


「折角塗ったのが隠れちゃうよ?」

「いいの。校則にも違反だろうし、お洒落は自己満足ができることが大事なんだよ」


 人知れずにさり気なく塗っているマニキュアもそういうものかと僕は適当に納得する。

 シノダさんは僕にお礼をいうと、早々に帰宅してしまった。補講プリントも終わっているのだから当然である。

 次に彼女に会うのは登校日、来週である。

 僕は帰宅したあとも、シノダさんの足の感触が手に残っているような気がしていた。柔らかく、汗ばんだ彼女の足は何にも代えがたく。そんなことばかりを考えていると、僕のプラモデルは真っ赤に塗られてしまっていた。


 ーーー

 ーー

 ー


 迎えた登校日は何も変わりなく、気が付けば既に下校時間を迎えていた。僕は相変わらず友人と阿呆な会話で盛り上がる。お色気漫画の単行本加筆の是非が今日一のテーマであったことを考えれば僕たちの偏差値が知れるだろう。

 補講の日の出来事は僕の中ではまだ消化できていない。消化どころか咀嚼すら危うい。

 あまりに非現実な、夏の黄昏に見た夢のような。一週間も経った今では本当に起きた出来事だったのかと自らの内に問うこともあったが、僕の指にはみ出した小さなルビーの輝きはそれが現実と証明する。

 そんな心境もあって、シノダさんの顔も僕はまだ見れないでいた。もともと気軽に会話するほどの仲でもなかったのだが、今日は顕著だった。彼女の方に目を向ければ、どうしても目線は沈む。彼女の足元にばかり注視してしまう。

 上履きの中は、靴下の中は、シノダさんの爪はまだ紅く燃えているのだろうか。足を見るほど、そう考えるほど僕の顔にも火は燃え広がってばかりであった。

 足を見ることも憚られて僕の目は逃げ出したところ、シノダさんと目があってしまった。彼女は不敵に微笑むと、僕のもとに歩いて来てしまう。

 僕はといえばオドオドと戸惑うばかりであったが、シノダさんが差し出した一枚の紙に冷静さを取り戻された。


「これは、入会届? 模型同好会の?」

「そ。この前のお礼だよ。名前だけ貸してあげる。部に昇格できるようにあとは頑張ってね」


 それだけいうとシノダさんは背を向けた。しかし何かを思い出したかのように振り返り、僕の耳元で微かに囁いた。


「また塗ってね」


 シノダさんの吐息と声は耳を貫き脳に突き刺さる。脳が揺れ、さらにはアスファルトに落ちたアイスクリー厶のように溶けてなくなるよう錯覚する。

 その瞬間、世界の色が少しだけ変わった。知らない色を理解し、今まで見えなかった色の存在を知った。

 踵を返して立ち去ったシノダさんの背中を見ながら、僕は蕩けた脳で精一杯に考え事をしていた。

 会員を探したいのか、それとも探したくないのか。どうして世界の色が変わったのか。

 考えるほどにシノダさんの顔と足先ばかりが思い浮かび、結論が出ることは一度もなかった。僕はまだこの感情の正体を知るには幼く、感情を認めるにはまだ色を知らなかった。

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