白猫の呪文

@dadatya

第1話

桜井優斗は、春の穏やかな午後、授業が終わった後にふとした気まぐれで学校の図書室に立ち寄った。優斗は高校2年生で、普段は友達と楽しく過ごすことが多かったが、この日はなぜか一人で静かに過ごしたい気分だった。図書室の静かな雰囲気に心が落ち着き、彼はゆっくりと本棚を巡り始めた。図書室の一角に、古い書籍が並ぶコーナーを見つけた。そこには滅多に借り手がつかないような、埃をかぶった本たちがひっそりと佇んでいた。優斗はその一角に足 を踏み入れ、何気なく手に取った一冊が目に留まった。それは「動物の神秘」と題された、革表紙 の分厚い本だった。表紙は色褪せ、ページも黄ばんでいたが、その古めかしい雰囲気が彼の好 奇心を刺激した。

「こんな本、誰が読むんだろうな......」

彼は心の中で呟きながら、そっとページをめくった。するとそこには、様々な動物たちの精巧なイラストが現れ、その動物たちにまつわる神秘的な伝説や呪文が詳細に記されていた。イラストは驚くほど精密で、今にも動物たちがページから飛び出してきそうなリアルさがあった。優斗は次第にその本に引き込まれていき、ページをめくる手が止まらなくなった。そして、あるページで彼の目は完全に釘付けになった。「人間と動物の境界を超える術」という章である。そこには、古代の呪文が記されており、それを唱えることで人間が動物に変身する方法が事細かに書かれていた。

「まさか、こんなことが......」

優斗は半信半疑ながらも、その呪文の言葉を記憶に留めた。彼はそのページを何度も読み返 し、呪文の一つ一つを頭に刻み込んだ。そして、心のどこかでこの奇妙な術を一度試してみたいという衝動が芽生えた。次の日の放課後、優斗は学校から家に帰る途中でいつものように友達と別れた。しかし、彼の頭の中には昨日の本のことがずっと引っかかっていた。彼はどうしてもその 呪文を試してみたくなり、家に帰る前に近くの公園に立ち寄ることにした。公園は放課後の時間帯で、子供たちが元気に遊んでいたが、彼はその喧騒から少し離れた場所に腰を下ろした。木陰にひっそりと隠れ、周囲に誰もいないことを確認すると、彼はついに昨日覚えた呪文を口にする決意を固めた。

「こんなことで本当に何かが起こるわけないよな......」

彼は自分にそう言い聞かせながら、静かに目を閉じ、心の中で呪文を唱え始めた。

「カリカリカムカム、ニャニャーレ......」

奇妙な言葉が口から発せられると、彼の身体に異変が生じた。周囲の空気が突然ひんやりとし、 風が止まり、音が消えたかのような静寂が訪れた。次の瞬間、彼の体は急激に縮んでいく感覚に襲われた。

「なんだ、これ......」


優斗は驚いて目を開けた。彼の視界が急に低くなり、周りの景色が巨大に見えた。彼はすぐに自分の手を見下ろしたが、そこにあったのはもう手ではなく、白い毛で覆われた小さな前足だった。 彼は自分が猫に変身してしまったことを悟り、驚愕した。

「嘘だろ......」

彼は声を出そうとしたが、口から出てきたのは「にゃー」という猫の鳴き声だった。優斗は信じられない気持ちで周りを見回したが、誰もこのことに気づかなかった。彼はこのまま猫の姿で生きるのかという恐怖が彼の心を満たし始めた。

「どうやって元に戻るんだ......」

彼は浮かんだ焦りと不安をかき消すために、公園の中を走り出した。しかし、猫の身体は彼の思うようには動かない。これでは元の姿に戻るための方法を見つけることはできないと思い、方策を練るために優斗は家に帰ることを決意した。しかし、猫の姿で家に帰るということがどれほど困難なことか、彼にはまだ分かっていなかった。猫の姿で家に帰ろうとする優斗は、まず公園を抜け出すことから始めた。だが、猫の視点から見ると、普段の道はまるで巨大な迷路のように、目の前を通り過ぎる人々はまるで巨人の群れように感じられ、思わず身震いをした。さらに、彼が今まで気に留めたことのない危険が次々と彼を襲った。公園の出口まであと一歩というところで、突然今の優斗より二回りほど大きい犬が彼に向かって吠えかかってきた。優斗は驚いて飛び上がり、必死で逃げ出した。彼の心臓は突然の運動と恐怖で激しく鼓動し、頭の中は真っ白になった。なんとか犬を振り切ったものの、その恐怖は彼の心に深く刻まれた。

「もう、こんなの嫌だ......」

優斗は疲れ果てたが、元に戻る方法を探るために、自宅を目指し続けた。しかし、猫の視点から見ると、家までの道のりは長く、多くの危険を孕んでいた。道を渡ろうとしたとき、車が彼のすぐそばを爆音を撒き散らしながら通り過ぎた。彼は驚いて後ずさりし、思わず道端の草むらに隠れた。

「こんなに怖いものだったのか......」

彼は普段の自分がどれだけ無防備だったかを痛感し、猫としての自分の無力さに打ちのめされ た。それでも、何とかして家に辿り着かなければならないと、再び立ち上がった。ようやく自宅の近くまで来たとき、日はすっかり沈み、ポツンと立つ街灯だけが周囲を照らしていた。彼は自分の家がまるで城のようにそびえ立っているのを見上げた。しかし、彼はドアを開けることができない。人間の姿であれば何でもないことが、猫の姿では全くできないのだ。

「どうしよう......」

彼はしばらく家の周りをうろつき、何とかして家族に自分の存在を知らせようと考えた。彼の母が庭に出てくるのを待っていたが、庭に何かいることに気付いた様子もない。家の中から、母が「優斗、どこにいるの?」と呼ぶ声が聞こえてきたが、優斗は何もできず、ただじっと彼女を待つことしかできなかった。

「お母さん......」

彼は涙が出そうになったが、猫の体では涙を流すこともできない。しかし次の瞬間、母は庭に やってきて、あたりを見回し、一匹の白い猫が座っているのを見つけた。優斗が安堵したのも束の間、母はそれが自分の息子だとは思いもせず、軽く撫でただけで家の中に戻ってしまった。優斗は絶望し、庭の片隅に身を隠して、どうすれば元に戻れるのかを考え続けた。夜が明けると、 優斗は再び公園に戻ることを決意した。おそらく、あの場所に元に戻るための手がかりがあるはずだ、と考えたのだ。彼は小さな足で再び公園に向かい、昨日呪文を唱えた場所に戻った。

「ここで何かが起きるはずだ......」

彼は自分に言い聞かせ、もう一度あの奇妙な呪文を唱えようとした。しかし、焦りと疲労で頭が混乱し、呪文の言葉を思い出せない。彼は何度も何度も記憶を辿りながら、断片的に言葉を繰り返した。

「カリカリカムカム......ニャニャーレ......」

だが、何も起こらない。優斗は絶望し、地面に崩れ落ちた。彼はもう元に戻れないのかと恐怖と 絶望に駆られ、涙が出そうになったがやはり涙は出なかった。そんな彼の心に、ふと別の言葉が浮かび上がった。それは、本の最後のページに記されていた「元に戻るための術」の言葉だった。

「そうだ、これだ......」

「ホロホロポポ......ミャミャウム......」

優斗は再びその言葉を心の中で繰り返し唱えた。すると、彼の身体が徐々に温かくなり、視界が元の高さに戻っていくのを感じた。彼はついに元の高校生の姿に戻ることができた。

「戻った......本当に戻れたんだ......」

優斗は喜びに震え、その場に立ち上がった。無事に元に戻れたことで、彼は心から安堵し、同時に二度とあのような危険なことをしないと固く誓った。あの本の恐ろしさを知った彼は、それを忘れ去ることに決めた。その後、彼は再び普通の高校生活に戻ったが、時折、何気ない瞬間にあの出来事を思い出すことがあった。外を歩いていると、ふとした瞬間に白い毛並みや、猫のように 鋭い視線を思い出し、心臓が一瞬止まるような感覚に襲われるのだ。しかし、それは彼にとっての戒めでもあった。好奇心に任せて軽率な行動を取ることがどれほど危険であるかを、彼は身をもって学んだのだ。そして、彼は二度とあの図書室には足を踏み入れず、あの本のことも他言することなく、あの出来事を心の奥底に封印することにした。彼の胸の中には、はっきりとただ一つ、「過ちを繰り返さない」という固い誓いだけが残った。

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