彼女は光の中にいて、僕はここにいる
林きつね
彼女は光の中にいて、僕はここにいる
……そう言われると、そこまで珍しいことではないのかもしれない。実際に世界では雷に打たれて死んでしまう人間がごまんといるんだから、有り得ることなのだろう。
ならば、雷に打たれてそのまま消え去ってしまう確率は、いったいどの程度なのだろう。
それが0ではないことを、僕は知っている。
僕の唯一の女友達である上嶋惑は雷に打たれて消えた。
放課後、雨の降る中、彼女は誰かが大切にしている田んぼに降り立って、雨の降る中で、その吸い込まれそうな黒く長い髪を振り乱して踊りながら
「ねえ、寺岡君。私はいつも凄く罰当たりなことをしている。だからいつか罰が当たると思う。でも、今みたいにこうやってずっと見ているだけのあなたも同罪だと思うの。だから、私に罰が当たる時はあなたも一緒よ」
といつも通り地に足のついていないことを言ってそのまま、空を裂く轟音のあと、彼女に降り注いだ一筋の光が彼女を消し去った。
「惑さん?」
名前を呼ぶ。
僕は腰が抜けていた。目の前に雷が落ちるという現象は、思ったよりも凄まじいものだったらしい。怖がるより前に、体が崩れて立てなくなっていた。
馬鹿みたいにでかい心臓の音が、死というものが今僕の目の前にあったことを教えてくれる。
「惑さん?」
もう一度名前を呼んだ。僕は見ていた。彼女から目を離さなかったから、彼女がその天からの光に包まれたのを。
立ち上がれるようになる度に、僕は何度か彼女の名前を呼んだ。返事は返ってこなかった。
雷に打たれた人間が生きている確率はどのくらいなのだろうと考える。僕は冷静だった。
冷静に周りを見て、直ぐに変だと思った。雨は変わらず降り続けている。
けれどそこには、さっきまで上嶋惑が踊り語っていた田んぼは踏み荒らされ、上嶋惑がそこにいたという事実だけがあって、そこには上嶋惑も雷が落ちた痕跡もなかった。
それから一年間経って、僕は彼女を探し続けている――。
「いい加減にしたらどうなんだ寺岡」
高校3年の6月。つまり、上嶋惑が消え去ってからちょうど一年。特になにをするでもなく、椅子に座って次の授業のチャイムが鳴るのを待っていた僕に、大家誠は詰め寄ってきた。
「聞いているのか、寺岡」
大家は忙しなく眼鏡を人差し指の関節で上げている。これは彼の癖だ。
大家が僕に何を言うかは分かりきっている。だから僕は鬱陶しげに答えた。
「なにか用か?」
「なにか用か……じゃない! この間の中間考査の順位キミは47位だったそうじゃないか!」
「170人中47位だぞ? そんなに目くじらを立てられるような順位じゃない」
「ふざけるな!」
大家は僕の机を大きく叩く。教室で談笑していた他の生徒の視線が少しだけ集まって、また談笑が始まった。
彼とは中学からの付き合いで、友人……ライバルと言える関係だった。
中学1年生の時、僕が初めてテストで一位を取りその時大家は2位だった。
それ以来彼は僕を意識し始め、それから僕たちは一桁台の順位で互いに競い合っていた。
「君は一位か、大寺。凄いじゃないか」
「……馬鹿にしているのか?」
「すまない。今のは僕の言い方が悪かった。けれいい加減に諦めてくれ。僕はもう勉強に身が入らないんだ」
僕は席を立った。廊下を出るとちょうど授業開始のチャイムが鳴った。次々と生徒たちが教室に吸い込まれていく中、僕は真っ直ぐ歩いて下駄箱を目指した。
後ろを見ると、大家が無言でついてきていた。
靴を履き替えて校門を出て、僕はため息をつく。
「早く授業に戻れよ、優等生」
嫌味ったらしい言い方の自覚はある。だから僕は大家と目を合わせなかった。けれど彼は真っ直ぐ僕の方を見て、何度目かわからないその言葉を吐いた。
「上嶋惑……あの女に出会ってから、君はおかしくなった」
"いなくなってから"ではない。"出会ったから"だと、彼は言う。
そしてそれはあまりにも正しい。
出会ってしまったから、僕は――
「もういないんだ! あの女に出会ってしまったから、君はまだいなくなったものに執着する。元の道に戻れるはずなのに君はまだ……君を引き込んだあの女はもういないんだ! どこにも! ハッキリ言ってしまおうか……一年前、あの女は雷に打たれて死んでしまったんだよ!」
「それを誰が証明した? 死体は見つかったのか? 現場から彼女の痕跡は見つかったのか。誰もなにも見つけられなかった」
だから僕は探している。
「だって、君は……君は見たんだろう?! あの女が……上嶋惑が雷に打たれたところを、その目で! なら常識的に考えて――」
「彼女を常識で語るのか? 散々彼女を非常識扱いしていた君が」
「僕が言いたいのは、非常識という意味合いであって、超常的という意味合いじゃない!」
「……じゃあ僕は行くよ。きっと君ならいま授業に戻っても先生は大目に見てくれるよ」
僕は小走りでその場を去った。逃げた。
「なぜそんなに上嶋惑に執着するんだ!!」
何度聞かれたかもわからない質問には答えず、もう彼の視界に入らないように細い路地を曲がる。
あまりにも後ろめたい。だって、大家誠の言うことはあまりにも正しいのだから。だから僕は屁理屈で煙に巻いて隙を見て逃げた。
こんなことも、一年間続けている。いや、これはもっと前からかもしれない。
初めて上嶋惑に出会ったあの時から。
上嶋惑は有名な異常者だった。
どこで身につけたかわからない哲学を語り、彼女の頭の中にしか存在しない理論を語った。
そのためには他人も平気で傷つけ、ルールも破る。
彼女は愛していた。横道に逸れることを。他人が眉をしかめるような行いを。
地面に誰かの大切なものが落ちていれば踏みつけたし、一人で泣いている子がいれば何も言わず頬を叩いたりもした。
これは比喩表現ではなく、実際に彼女がやったことだ。
「私は定義された正しさの中にいたくない。けれどその正しさの横にいたいの。だからちょっといつもズラすんだ。寺岡君、どう? 私はいまところにいるかしら」
上嶋惑はよくそう言っていた。
彼女の言葉と行動は雲よりも掴めず形を変えるばかりだったけれど、彼女をとりまくすべてに対して俯瞰の視点を持ち続けたかったのだと思う。
これは僕の想像で、答え合わせをする前に彼女はいなくなってしまった。
上嶋惑がいなくなって、僕は彼女を探し続けた。強い雨の日は高いところに登ったり、わざと金属を身につけたりして雷を受けようとした。
怪しい噂のある場所は一通り巡った。彼女の真似をして人をあえて傷つけるようなことをして、自殺紛いのことだってやった。
僕は明確におかしくなってしまっている。友人も教師も親も、僕に関わらなくなった。
ただ大家誠だけが、この一年間僕にそんなことはやめろと言い続けてきた。
彼だけが、僕の友人で居続けてくれていた。
「惑さん、いつになったら会えるんだよ。僕はもう、限界なんだ」
高校に入学したての頃、僕は勉強のために図書室に行った。
ノートと教科書を広げて、これから始まる授業の予習に取り組んでいた時、僕の手からペンが離れた。
驚いて顔を上げると、一人の女生徒と目が合った。真っ黒な髪に真っ黒な瞳、窓から差し込む夕日がすべて吸い込まれてしまうのではないかと思うほどで、僕は目が離せないでいた。
そしてその女生徒は――上嶋惑は、僕が彼女を認識したことに気がつくと、迷いなく僕のペンを真っ二つにへし折った。
「ねえ、いま私はあなたのペンを折ったわけだけれど、でもあなたの勉強にはなんの影響もないとは思わない? だってあなたはそのケースの中に他のペンをあと何本か入れているでしょうし、もしないなら私のポケットに入っているからすぐにでも出せる。けれど、きっとあなたは思う。そういう問題じゃない……と」
「……」
「でも私の言っていることは事実。人間は起きている事実よりも不愉快の感情によって出来事の重さを計るの。それって面白いわよね。たとえば今私がポケットに入っているペンで自分の喉を突き刺して死んだとする。あなたは私の血をいっぱい浴びて、精神的にも物理的にも完璧なる被害者なわけだけど、けれどきっとあなたは被害者の心のまま生きていけない。私一人を悪者にできない。心のどこかで自責する。どうしようもなかったのに。ねえ、こういうのって人間の欠陥だと思う? それとも益のある特性だと思う?」
僕はなにも言わず、ただ彼女を見つめ続けていた。彼女の動かない瞳を見つめ、喋るために動く唇を目で追っていた。
話は一応聞いていたから、ノートを閉じて僕はただ一言だけ言った。
「……もう少し、君の話が聞きたい」
彼女の話の理屈も筋は、彼女の頭の中にしか存在しない。僕だって彼女の話を理解できたことはない。けれど僕はそこから彼女の話を聞き続けた。一年と少しの間、ずっと。
上嶋惑は異常者であったし、そんなのと一緒にいた僕は当時から周りに避けられ始めたし、大家から道理を説かれるようになった。
けれど、楽しかった。
彼女の話を聞き、見ることが僕の人生にとっての光のようになっていた。
「寺岡」
ある日、いつものように席に座っていると大家が話しかけてきた。
この間僕が彼から逃げて以降、一ヶ月ぶりに口をきくことになる。
僕は今日は大人しく授業を受ける気だったから、ただ黙って彼の言葉の続きを待った。
そして大家は、僕にスマホの画面を突き出して言った。
「……ぼくなりに色々調べてみたらこれが出てきた。"エレベーターを使って異世界に行く方法"だそうだ……。もしかしたら、上嶋惑はそこにいる……のしもしれない」
僕は言葉を失った。そして今なにが起きたのか少し声を巡らせて、僕は大声で笑った。
普段は僕と大家が口論していても気にもとめていなかったクラスメイト達が、全員驚愕の表情で僕たちを見ていた。
そして一番混乱しているのは大家だった。そう、彼は大真面目なのだ。
なんの心変わりか僕に協力しようと、その手のことを検索しようとすれば10秒でたどり着ける手垢のついた都市伝説を、調べに調べた末僕に見せて来たのだ。
「なぜ笑う?! 君はそこまで僕をコケにしているのか?!」
大家が怒鳴る。けれど笑いは止まらない。ああ、こんなに笑ったのはいつぶりだろうか。
「寺岡、ぼくは君のことを友人だとずっと思っている! ぼくはこれ以上君がおかしくなっていくのを見てられないけれどぼくの言葉は届かない! なら、ならせめてきみが本当に一線を超えないようにぼくが――」
「知ってるよ。君の気遣いも思いやりも、僕は全部知ってる。知っている上でそれを蔑ろにしてきた。なのになんで君はまだ、僕に大してそこまで世話を焼くんだよ」
「……ぼくには、君以外友達がいない。人生で初めての友達だ。だから君に壊れてしまって欲しくない。それだけなんだよ……」
「……重いやつだなお前は」
ただの学生時代の友人一人にそこまでの感情を向けるなんて、道理で他に友達が出来ないわけだ。
いや、そもそも僕に構わなければきっと友達が出来ていたことだろう。損なやつだと思う。とても、そう思う。
僕は机の上に出していた教科書をカバンにしまい席を立つ。せっかくくれた情報だ、早く試さなければならない。
大家はもう僕を引き止めることも、着いてくることもしなかった。
「なあ、寺岡。なぜ上嶋惑に執着する?」
それを無視して、僕は教室を後にした。
まず10階以上のビルのエレベーターに1人で乗る
次にエレベーターに乗ったまま、4階、2階、6階、2階、10階と移動する
この間人が乗ってきたら成功しない
そして10階についたら、降りずに5階を押す。5階に着いたら若い女の人が乗ってくる。
乗ってきたら、1階を押す。
この手順をこなすとエレベーターはなぜか10階へと上がり、その先は異世界――というネットの掲示板で何度も見た都市伝説だ。
僕はそれをわざわざ改めてやっている。10階以上のビルなんて学校どころか家の近くにもないから、わざわざ電車で30分かけて。
何度目かの挑戦で、誰一人乗ってこないまま10階にたどり着くことが出来た。
そして5階のボタンを押す。すると女の人が乗ってきた。その女の人は酷くしかめた顔をしており、驚くほど低い声でエレベーター内の僕に真っ直ぐこう言った。
「さっきからエレベーターで遊んでるのはあんた?」
白状しよう。僕はここ一週間、もう上嶋惑を探してはいなかった。
僕は上嶋惑ではない。
僕はこの一年間、彼女に会うためだけに彼女のように異常な振る舞いをしていた。けれど僕はまともなのだと思う。
友人が気にかける程度には、それを拒絶しきれない程度には、僕はずっとまともな人間だった。
無理をしていた。彼女のように振る舞い、彼女の足跡を辿ればまた会えるかもしれない。
そんな空虚を一年間追い続けて、僕は疲れてしまった。
散々怒られた後、僕は名前も知らないビルを後にする。
「もう二度としません」
怒られている最中にその言葉を5回は言った。
もう、二度と――。
「惑さん」
この一年間で、届かなくなったその名前をなんど呼んだことだろう。
青空の下で自動販売機のボタンを押す。炭酸で喉を潤しながら、僕は最後にどこかにいるかもしれない、もうどこにもいないかもしれない人に話しかけた。
「あなたは僕に会いたくならなかったのか?」
そして僕は優等生に戻った。
学生というのは都合がいい。ただ昔のように勉強をして、昔のように成績を戻せばそれだけであそこまで酷い状況にあった僕のことを見直してくれる。
酷い欠陥だ。彼女なら、この状況をどんな風に言葉にするだろう。どんな行動で、台無しにするのだろう。
少しだけ考えて、目の前にあった進路調査の紙にペンを走らせた。
そして3月。
『おめでとう! さすがだ!』
という大家からのメッセージによって僕は志望大学の合格を知った。
そして家を出て、互いに顔を合わせて互いの合格を賞賛して、友人らしい取り留めのない話をした。
そして別れ際、僕は大家に告げる。
「最後に、もう一度行こうと思う。惑さんがいなくなった場所へ」
大家はなにも言わなかった。ただ一言、家に着いたら連絡をくれ とだけ返した。それ以上はもう何も言わず。
僕はふと思い出して、今ではすっかり聞かれなくなったあの質問に答えることにした。
「そういえば、僕がなぜ上嶋惑に執着するのかずっと気になってたよな」
「……ああ。優秀なはずの君がなんでそんな愚かな真似を、とずっと思っていた。どれだけ考えても、そこだけがわからない」
「顔」
「ん?」
「タイプなんだ。彼女の顔が。恥ずかしいから言わなかったんだけどさ、初めて見た時からずっとそう。ただそれだけだったんだ」
これは事実だ。
あの図書室で、いきなり僕の前に現れていきなり僕のペンを折った女。その顔にただ見惚れていた。もう少しこの顔を見ていたかった。だから僕は彼女のそばにいたかった。
本当に、ただそれだけだった。
唖然とする大家に背を向けて、僕は歩きだす。なにか言いたげな表情をしているが、言葉が出てこない様子でただ金魚のように口が動いていた。
こんなことなら言わなければ良かったかと思ったが、まあいい。どうせまた顔を合わせるのだから、文句はその時にでも聞こう。
田んぼと田んぼに挟まれたその広いあぜ道は、塗装されているコンクリートと違って雨が降っていると酷く歩き辛い。
幸い今日は晴れで歩きにくくはないが、上嶋惑は悪路を好んだ。だからあの日も僕はここを歩いていた。
あの時とは違う、乾いた田んぼ。
そこには目を疑うような光景が広がっていた。
忘れもしない。上嶋惑を最後に見た場所。上嶋惑が消えた田んぼの真ん中。その場所に光があった。
そしてそれは雷ではなく、柱だった。天に真っ直ぐ伸びる光の柱。
なんの冗談だと思った。もうとっくに諦めていたのに今更なんのつもりだと思った。けれどそういった色んな感情よりも先に、僕の体はその光の柱を目指して走っていた。
いつ、それに触れたのかわからない。ただ瞬きのような一瞬の視界の切り替わりの後、そこは一面の野原で、バス停の横にあるようなベンチが一つだけおいてある。そこに、彼女は座っていた。
「あら、久しぶりね寺岡君。あとさすがにこうも言った方がいいわね、大学合格おめでとう。……ああ、私人におめでとうを言うだなんて4歳の時が最後よ。とりあえず、座ったら?」
隣に座る。僕はなにも言葉が出なかった。泣いていたみっともなく泣いていた。
「みっともないわね。涙って老廃物だけど、泣きわめいて後あなたは少しでも綺麗な人間になれるの?」
なれません、でも少しスッキリはします。きっと、気持ち的に
そんな返答が頭に浮かんだ。けれど僕はそれどころじゃなかった。彼女の声が頭に響く度に、嗚咽が出て止まらない。彼女の顔を見ようとする度に、視界が歪んでなにも見えない。
崩れたダムみたいに、僕は大声を上げて泣き喚き続けた。
そして上嶋惑は、僕が泣き止むまでなにも言わなかったしなにも言わなかった。ただずっと、嘘みたいに青い空を眺めていた。
「……なんで僕が大学に受かったこと知ってるの」
「見たもの。あなたが他の人間から連絡を貰って喜ぶでもなく当たり前みたいな顔をしていたところを。喜怒哀楽が不愉快な人って言われない?」
「まだ惑さんにしか言われたことがないです。ていうか、見たって……」
「最近見られるようになったの。気がついたらこんな場所にいたのよ? それはそれは色々なことを試したわ。本当に色々。自分の目玉を抉ってみたりとか。でもなんだか元に戻ったわ。不思議ねここは。そうしたら、つい最近外の世界を覗けるようになったの」
「そもそも、ここはどこでなんなんだよ。僕と惑さんは生きてるの?」
「愚かね。あなたの心臓は役所にでも保存されているの? 今ここに私たちの体があるのだから生きているに決まってるわ。そしてここがどこでなにかという質問だけれど、それはこれから私が解明するわ。最近、だんだん楽しくなってきたの」
そう語る上嶋惑の顔は、楽しいと語るその言葉に一切の嘘がないことが読み取れた。
「私はすべてを俯瞰で見たかった。けれど私だって人だもの。すごく大変。だからそのために色々努力をしたの。君だってずっと見てたように」
「あんなものに努力なんて言葉を使うのは惑さんぐらいだよ」
「そう? なら嬉しいわ」
そう言ってカラカラと笑う。今僕の隣にいる彼女はたしかに上嶋惑だが、けれどどこが別人のようで、そう、明るくなっている。
「……惑さんはずっとここにいるつもり?」
「当たり前よ。だってすごくいい場所だもの。それにさっきも言った通りここがなんなのかまだわからないことだらけ。頑張って解き明かすわ。ねえ、寺岡君はなにか頑張ってる?」
「――勉強だよ。大学にも受かったしね」
僕は強がった。彼女のいない一年間でやったあれやこれ、あまりにもみっともない僕の在り方は隠しておきたい。ああ言っていたし、きっと見られてもいないだろう。
「あら、もう帰るの?」
「え?」
上嶋惑のその言葉で、僕は自分が淡い光に包まれ初めていることに気がついた。
一瞬驚いたが、彼女がそう言ったのならこれは元の場所に帰る合図なのだろう。
「……まだ話足りないな」
「話せたわよ。君が泣きじゃくっていなければもっと。効率が悪いのよ。きっと勉強するものを間違えたのだわ」
と、上嶋惑は前を向く。もうお別れというように。彼女はこれからもここで生きていく。僕は元の生活で生きていく。
せっかく会えたのに、そこにはなんの抵抗もなかった。というか、僕がどうこうできる話じゃない。僕はただずっと、上嶋惑を見ていただけなのだから。
だから最後に、誰にも言わなかったその一言を口にする。
「惑さん……好きです。初めて会った時から、ずっと好きです」
「嫌よ。だって君ってすごくつまらない人間なんだもの」
前を向いたまま、彼女はそう言った。
自分を包み込む光が強くなる。そろそろ時間らしい。
上嶋惑は足をぷらぷらと揺らして、あっとなにかに気がついたように喋り始めた。
「あっ、でもそうね。よく考えたら君ほど私の話を黙って聞いて傍にいた人もいないわ。私は君のことずっとつまらない人間だと思っていたけれど、なんだかそれは悪い意味じゃないの。ええ、ないの。君が私の傍にいて負の感情を抱いたことってそういえばないのよね。これってどういうことかしら……ああ、うん、そうね、そう、寺岡君、私――」
そう言って彼女は僕へ顔を向ける。
光の中から光の外へ、この場所から引き剥がされていく感覚がする。
景色が収縮していく。上嶋惑は、笑っていた。
ただ緩やかに頬を上げて、視線の先にいるものを慈しむように、ただ穏やかに笑っていた。
そして僕は、彼女の最後の言葉を聞く。
「私、君がおじいちゃんになった姿を見たいわ」
そして僕は現実に戻る。
辺りには、上嶋惑が消えた時と同様になんの痕跡もなく、ただ当たり前のあるべき景色が広がっていた。
けれど今僕が起こったことは夢ではない。それだけはわかる。
そういえば聞いたことがある。人間が壁をすり抜けられる確率は0ではないと。
僕はその小さい確率を引いたのだろうか。たまたま通れるはずのない道を通って、隣合った別の世界にいったのだろうか。
答えは出ない。いつか向こうにいる彼女が解き明かすのだろうか。解き明かされる頃には僕は老人になっているのだろうか。その時また会えるのだろうか。
最後に見た笑顔が焼き付いてきえない。唇を噛み締て、また惚れ直してしまうのを我慢しながら僕は家に帰った。
家に着いてそういえばと、大家に電話を入れる。あいつはあまりスマホを持ち歩かないので出るまでに時間がかかる。
30秒ほどたって堅苦しい声が聞こえてきた。
「……遅かったな」
「ああ、少し思い出に浸っていたんだ。それはそうと大家、合コンを開いてくれないか? 髪の長い美人を沢山集めて欲しい」
「……はぁ?!」
聞いたこともないような素っ頓狂な声が電話口から返ってくる。
時計の針がてっぺんを刺して、次の一日が始まろうとしていた。
彼女は光の中にいて、僕はここにいる 林きつね @kitanaimtona
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