12話 歩き始めた道で

 ジリリリ、目覚まし時計の音が私を眠りの世界から引っ張り出す。ずるりと身体を翻して目覚まし時計のスイッチを押し、喧しい音を断つ。まだ少し肌寒いけど、のそりと立ち上がって部屋のカーテンを開ける。


 新しい春の日。今日から私は大学生だ。朝日を浴びながら体をグッと伸ばし、意識をはっきりとさせる。身支度を整えて外出の準備を終えた私は新居の扉から外の世界に一歩踏み出す。


「今日も頑張るよ。陽子」


 陽子にもらった天使の指輪にチェーンを通して作ったお守り。首にかけているそれに言葉をかけてから、私は最寄りのバス停に歩を進めた。


 あの日から私はこの世界を生きている。世界から目を逸らすことをやめて、ちゃんとこの世界と向き合って生きている。やっぱりこの世界にはいくらでも理不尽は転がっていて、でも、そんな世界で力強く生きているからこそ価値がある人生になるのだと思う。そんな世界で報われるからこそ嬉しいのだろう。


 絶望はいくらでも転がっている。それに躓いてしまうことも。でも、その暗闇の中で得た幸福の価値は色あせるものじゃない。あの時感じた幸せは変わらずにずっと胸の中にある。陽子が教えてくれた愛を胸に、私は今日も生きている。


 陽子が背中を押してくれたから進めたこの道を私は最期まで走り抜く。何度躓いても、何度転んでも、途中で走ることを諦めたりなんかしない。だって、生きて欲しいと陽子に願われたから。いつかまた会った時に胸を張って生きてきたよと言うために。


 〇〇〇


 大学生になって5か月ほど経った、夏休みの中判。受けた講義の単位は無事に取り切り、晴れ晴れとした気持ちで長い夏休みを迎えた私は、大事な用事のために生まれ育った土地に帰ることにした。


 歩き去ってはまた新しい人がやってくる。人間が絶えることのない光景は心が休まらず、精神がすり減るような感覚がする。田舎というには建物が多く、都会というには人が少ない街にいたから、この都会の雑踏にはまだ慣れない。駅前で身をひそめるようにして行き交う人々を眺めて待ち人を探していた。


「あ、ひまっちみっけ。待たせちゃった?」

「大丈夫。約束の時間には間に合ってるわ」


 花巻海音。彼女のお見舞いに行ったことが陽子と出会うきっかけになった。それに、昔から私のことを気にかけてくれた。陽子の言葉で生きようと決意した私が挫けることなく前を向けたのは、彼女がそばにいてくれたおかげだ。いろんな意味で彼女には感謝してもしきれない恩がある。


「それじゃあ行こうか」

「そうね」


 交通系ICカードで改札を抜けて電車に乗り込む。田舎の方に向かう電車だからか、中は空いていて余裕を持って座ることができた。


「直接会うのは半月ぶりか」

「バイトで忙しかったからね。そういえば海音はちゃんと単位はとれたの?」

「サボらなければ単位はとれるよ。……GPAはさておき」

「今度良いレポートの書き方教えてあげるわね」


 電車の席で向かい合って、近況を報告し合う。海音とは大学は違うけど近い場所に住んでいる。それぞれの大学の用事が優先ではあるけど、週に一回は会って話している。大学が違うからこそ赤裸々に話せることがある。友人の恋愛事情がどうとか、サークルの先輩への不満とか。


 こうして休みの日に予定を合わせて出かけることも多い。ゴールデンウィークの時なんかは二泊三日の旅行に行った。海音は友達が多いだろうに、私のために予定を空けてくれる。金髪に染めて、メイクもばっちりな大学生らしさ満載の見た目に変わっても、優しいところは変わってない。そんな親友がいてくれる私は幸運だ。


「いやー、この光景も久しぶりだね」

「そうね。……それより、本当に海音の家に泊まっていいの?」

「相変わらずひまっちは細かいところ気にするね。親友なんだからさ、遠慮せず頼ってよ」

「そっか。じゃあお言葉に甘えようかな」


 ここは私が生まれ育った土地だけど、実家がない私はこっちに泊まれる場所がない。一日で往復してもいいのだけど、それではゆっくりできないだろうと海音が実家に泊めてくれることになっていた。


「久しぶりのこの景色! なんか安心感があるね」


 生まれ育った故郷に帰ってきて、海音は大きく背伸びをしながらそう言った。流石の海音も都会では気を張るのか、振り返った時の彼女の顔は心なしか緩んでいて、小学生の頃を思い出した。


「心が育った場所だからね」

「うーん? ひまっちがまた難しいこと言ってる」

「海音はそのままでいいってこと」


 ここで過ごした期間は二十年にも満たない。これから先の人生を考えれば僅かな時間かもしれない。でも、それは自分を形作った時間だ。大切な誰かと過ごした時間、何かを失って悲しんだ経験、みんなで笑いあった楽しい記憶、今でも自分の中にあるものは全部この場所で生まれた。故郷は自分の根底を感じさせてくれる。だから、自分に正直になれて、安心するのだろう。


 行きたい場所はたくさんあるから、まず身軽になった方がいい。そのために私たちが最初に向かったのは海音の実家だった。優しい母と活動的な父、のんびりと年金生活をしながら孫を可愛がる祖父母、長女の海音、大人しい長男とスポーツ少年な次男の三人姉弟というにぎやかな家族構成だ。総勢七名が住む家は相当広く、よく友達同士のお泊り会でお世話になった。


「ただいま!」

「おじゃまします」


 玄関を開けて海音の家の中に入ると、海音らしい元気のよい声で帰ってきたことを伝えた。するとリビングの方から海音のお母さんが顔を出し、駆け足で私たちに近寄ってきて笑顔で出迎えてくれた。


「海音、向日葵、おかえりなさい」

「ただいま」

「しばらくお世話になります」


 海音の二度目のただいまに続いてお辞儀をする。そして顔を上げると、海音のお母さんは私の頭にポンと手を置いて撫ではじめた。


「遠慮しなくてもいいのよ。向日葵は私たちの家族なんだから」


 その優しい瞳は私の母親を思い出させる。そういえば、私のお母さんは海音のお母さんと気が合うと話していたっけ。似た者同士なんだなと、そう思うと一歩引いていた足を自然と踏み出せた。


「た、ただいま」

「おかえりなさい」


 まだ少し照れ臭いけど、ここが私にとって帰ってこれる場所になっていると伝える。海音のお母さんはこくんと頷いて、私の言葉を受け取ってくれた。海音の家族は私を温かく出迎えてくれる。生きる気力を失っていたころはそんな優しさも受け取ることができなかったけど、今は私の第二の家族だと感じられるようになってきた。ここに居て良いんだと海音と海音の家族が何度も伝えてくれたから。


「さて、まずはどこに行こうか」


 家に荷物を置いた私たちは当初の目的通りに故郷巡りを始めた。私たちの目的というより、私の用事に海音が付き合ってくれているという感じだ。お世話になってばっかりで申し訳ないと伝えたら、色々思い出に浸れて楽しそうだからと海音は笑ってくれた。私が気負わないための嘘じゃなく、本心からそう思ってくれている海音の純粋さには救われてばかりだ。


「高校生ってもう夏休み終わってるんだね」


 グラウンドで体育の授業を受けている高校生を見かけて、海音はそうつぶやいた。8月末には高校生の夏休みは終わる。ここ数年の猛暑を考えれば、もう少し夏休みを長くしてやってもいいのではないかと思うけど、授業の進みを考えるとそうもいかないのだろう。


「それより、海音にはよそ見しないで欲しいな」

「若い子に浮気するなってこと?」

「純粋に運転が不安なの」


 海音の運転する車で移動しているけど、彼女の助手席は心休まる暇がない。ちゃんと免許は持ってるらしいけど、下宿先に車がないから運転には慣れていない。ただでさえ大雑把なところがあるから、事故しないか不安で仕方ないのだ。


 注意した甲斐もあってか、海音の運転が安定し始めた。そして第一の目的地に到着した。この時期は見ごろから少しずれているけど、やっぱりここは私の思い出の場所だ。


「わぁー、やっぱりここはきれいだな」

「そうね。晴れててよかったわ」


 隣町の向日葵畑。両親と訪れた楽しい思い出と陽子に自分のことを語った記憶が宿るこの場所では、記憶と変わらない美しい向日葵たちが咲き誇っていた。日傘をさしてゆっくり歩く私とは対照的に、海音は太陽の光の下で向日葵の輝きと正面から向き合っている。


「海音」

「ん? どうかしたの」

「海音は居なくならないでね」


 不意にそんな言葉が漏れ出した。急いで抑えるけど、海音にはもう届いてしまっていた。こんなこと言うべきじゃないのに、でも、どうしても不安になってしまった。


 私の両親も陽子も、ここに一緒に来た大切な人は私の目の前から消えてしまうから。誰も明日に保証なんてないのに、海音が重荷を感じるような言葉を投げかけてしまった。


「大丈夫だよ。ずっと一緒にいたじゃん。今更いなくならないよ」


 失言で俯いた私の両頬を抑えて、海音は私と目を合わせると大洋みたいな眩しい笑顔を見せてくれた。ずっと……海音は本当にずっと私を気にかけてくれていた。私がまだ絶望していなかった幼少期も、両親を失ってすべてを諦めていた時も、陽子に生きる道を示してもらった後も、海音は私のそばにいてくれた。私が課した重荷を海音はいとも簡単に背負ってくれた。


「そう、だね……ありがとう」

「どういたしまして」


 私の一歩前を歩いていた海音は、私の手を引いて隣を歩いてくれるようになった。私がこんなことを言ったから、近くに居ないと不安になってしまうのだと思われたのかもしれない。


 陽子の願いを叶えるために生きる道を歩いているけど、陽子の指輪は手放せないし、海音にも気にかけてもらってばかり。誰かに寄りかかっていないと生きていけない。でも、それでいいんだろう。人は大なり小なり何かに依存している。両親を失った私が普通よりも親友に寄りかかっていても誰かに責められることでもない。


「ほんとうに、ありがとね」


 貰ってばかりじゃなく、海音にいつかこの感謝を返せるようになりたいな。向日葵の隣を歩く明るい笑顔の彼女に聞こえないようにこっそり感謝を伝えた。

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向日葵が向く先に SEN @arurun115

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