寿命半減スイッチ
能村竜之介
寿命半減スイッチ
皆さんは二千XX年に起こった、伝説の不祥事事件をご存じだろうか。そうと書いて分からなかった方の半分は、『ダメだこりゃ』という言葉でピンと来るのではないだろうか。
あの事件は謎が多く、結果的に社会的な大混乱を巻き起こしたという点以外でハッキリとしていることは少ない。しかし先日、例の事件を明るみにし、なにより被害者であったA氏らが記憶抽出の処置を受け、証言以上の〝生体験〟を世間に知らせたという衝撃的なニュースが駆け巡ったことは記憶に新しいが――――。
アイハラが目覚めたとき、まず自分が車に跳ねられた瞬間を思い出した。雨の日の、暗くなり始めた四時のこと。住宅街の見通しの悪い路地に差し掛かったとき、前照灯を着けていないシルバーの車が音もなく現れ、物凄い衝撃を感じた。そうして視界はあらゆる回転軸をカオス的に回したように残像だけを残して、やっと止まったと思えば今度は動かなくなった。
まるでいま起こったことのように思い出し、『傘を持ち上げてミラーを見れば気付けただろう』だとか、『あの車からだと緩やかな下り坂だったから、きっとアクセルにもブレーキにも足を掛けずにいたせいで音がなかったのだろう』だとか、病院の天井をベッドで見上げたまま、そんな事ばかりが思い浮かんでいた。そのせいなのか、なにか難しい問題に集中しているような負荷が脳にあるのを感じていた。
「初めまして、アイハラさん」
声がした。その姿を見ると、話し掛けてきたのは成人男性。それが座って、アイハラをじっと見つめていた。
「目覚めて早速で悪いのですが、自己紹介をさせてください。僕はヒラサカという者です」
「ヒラサカさん、ですか」
「はい。こちらが、名刺となります」
受け取る。五十五掛ける九十一ミリメートルの紙片には、『YOMI株式会社』や、『CEO ヒラサカ』と見てとれる。
「いったい、何が起こったのですか。私に」
「まずアイハラさんは、大きな事故にあいました」
「ええ。そうですね。轢かれました」
「よく覚えてますね。その通りです。そうしてしばらくの間、あなたは遷延性意識障害、いわば植物状態に陥りました」
「そうなんですか。何日たったんですか?」
「七十……すみません。正確には忘れてしまいましたが、七十日くらいです」
「七十日もですか」
アイハラは驚いた顔をする。ヒラサカはただ、好意的な微笑みのまま困ったような顔をした。
「も、とも限りません。本来ならば数年単位で目覚めない可能性だってあったんです。それを私のYOMI社が、たった二ヶ月と少しで解決したのですよ」
「というと、植物状態から回復する措置をしたのは貴方の会社なんですね」
「その通り、ウチです」
アイハラは助かった安堵と喜びを示すように、目を細め、笑った。
「どんな処置をしたんですか?」
「簡単に言うと、脳は神経による電気回路なんですが、事故で機能を失ったところに新たな回路を作り出した、というところです。いわゆる、人格の面で欠けてしまったところを補った、というところですね」
「ということは、脳にチップか何かを埋めたんですか」
「そうです。ですから、MRIは絶対に受けてはいけませんよ? 大変なことになりますからね」
今度は、恐怖と緊張を示した。
「そこまで恐れることはありません。世界中に電波が飛び交っていますが、例えば心臓のペースメーカーがその電波で止まっただなんて聞かないでしょう? それと同じですよ」
「そうですか。ならよかった」
「ええ。ご安心してください。なにせ実績がありますからね。今までにウチの処置を受けたところから、それが原因で事故が起こったという話はいまだにゼロなんですから」
言いながらヒラサカは立ち上がり、微笑んでみせた。
「とにかく目が覚めてよかった。私はもう行きますが、なにか不安や疑問があればすぐに、連絡してください。なんなら、働き口の相談でもいいですからね」
その言葉を受け取り、アイハラが実際にYOMI株式会社へ応募、入社したのは、三年のちのことだった。
「頭が疲れる感じ、か。
社長ヒラサカが、資料の文字に目を落としている姿を、数名の社員がじっと見守っていた。三度前のミーティングから緊急事態としてオフラインのミーティングが開かれ、全く同じ内容で全く同じ時間を無駄にしていた。
YOMI株式会社は、十に届かないわずか数名で運営しているベンチャー企業だった。ヒラサカ社長は社長としての舵切りをほとんど部下に投げ、技術者として会議に出席している。
その技術とはもちろん、植物人間に意識の回路を取り戻すためのICチップ、『4M・OTU』の全ての技術だ。それに使われている四次元構造トランジスタが、少なくとも登場から五年たった現在でさえヒラサカにしか扱えないものらしく、会社の脳というより会社の心臓、実質的な開発者であった。
「昨日のミーティングでも言ったけど、このあとアイダさんと会ってきます。ですが、その前にこの症状について、心当たりかアイデアがあれば是非聞かせてもらいたいんですが……」
社長が言うと、全員の視線が一点に注がれた。
YOMIの社員であり、同時に唯一の患者でもあるアイハラを、まるで頼みの綱のように扱っているが、少なくともここ三回のミーティングで案が出ることは無かった。
「そうですね。やっぱり、目覚めたときには私も頭が疲れるような感じがありました」
「それは目覚めた直後の話だろう? 今回上がってるアイダさんはもう二年目だ。君と同じくらいの方だよ」
「それはそうなんですけど。私は別に、あの感覚にまた襲われるなんてことはありませんでしたので……」
「そうか。やっぱり、調査しないとね。アイダさんとのアポは二十分後でいいね?」
「そうです。予定通り」
「うん。じゃあ今日は、開発室の方に通して、色々と調べよう。アイハラさんは同席して記録をお願い。何か気付いたことがあったら報告してほしい。他に報告、質問がなければこれで終わります」
いつも通り何の質問も無かったので、二人してフロントでアイダを迎えに待つ。
時は夕方、一割だけ空が覗く曇り空で――。
「…………っ」
突然に、アイハラは妙な感覚に襲われた。それは熱病にうかされた時の、朦朧とした感覚のような、脳が熱い曇りに包まれたような、曖昧な感覚だった。
それから、異常なまでに集中したあと、力を抜いたときにやって来るあの感覚が、ゆっくりとやって来た。
すり減ってざらざらした意識と、痛みのひとつ前のような、感覚の存在。
「……そういえば」
ヒラサカが外の鬱屈とした白い雲に開く、深海のように深く青い穴を見上げて口を開いた。
「このすぐ近くで、ジョギングをしていたら、畑の横の裏道でリンゴの無人販売があったんだ。好きだったでしょ、アイハラさん」
「……いえ、どっちかというとミカン派ですかね」
「え。そうだっけ。ご家族さんもリンゴが好きって言ってたような気がするけど」
「それは昔の話です。ずっと食べてたんですよ、リンゴ飴とか。しかも……なんと言いますか、恥ずかしいお話ですけれど、アニメのキャラの影響で……」
アイハラこそ、そうだっけと思い出すと、確かに最近もリンゴばかりを食べていた。だが確か、大人になってからはミカンを頻繁に買っていたはずだ。
むしろ、ミカンが好きだという方が気のせいだったのかもしれない。
「……へぇ」
「あ、来ましたよ、アイダさん」
彼の齢は三十代の終わり頃だろうか。いや、疲労のせいか顔がたるみ、十歳は老けて見えるのか。それが母と共に、まさにトボトボといった様子でエントランスを抜けるところだった。
ヒラサカはにこやかに身体を低くした。あとは手を揉めば胡麻すりの姿勢になるなと、アイハラは少し笑いを堪えていた。
「お世話になっておりますアイダ様。お久しぶりですヒラサカです」
「……こんにちは。すみませんね。疲れてるんで」
とにかくぶっきらぼうに言う。カフェインで夜を限界まで延命しきった毎日ならば、きっとこんな具合になるのだろう。
「構いません。では検査の前に聞き取り調査をしたいので、さっそくですが奥へどうぞ」
廊下を案内し、パーテーションで区切られた、サービスと料金の説明にも使う来客用のスペースへ。
すかさずアイハラが更に奥のパーテーション裏まで向かい、段ボールから茶のペットボトルを取り出す。この会社では男女の平等化が進み、今やお茶汲みの仕事は男女関係なく力のない下っ端がやることになっていた。現状の下っ端はもっとも新人のアイハラだった。
わずかに被った埃を息で飛ばそうと吹くなり、数学の問題が少しも分からないのに惰性で取り組み続けているような苦痛がやってきた。少し息を深くするだけで、どうしてこんなに疲れるのだろうか。
二本のボトルを母子へ出し、アイハラは隣に座った。
「――ですから、疲れるんですよ。ずっと。寝ても寝ても取れないんです疲れが」
「なるほど。ですが、その症状自体に関しては、命に関わるものでは決してないので安心していただきたいのです。ウチでは脳疲症と呼んでいまして、ずっと眠っていた脳を使い始めたとき、ずっと休んで細くなってしまった脳回路の一部を、急に正常に使おうとするために起こる疲労なのです。例えばパズルなどで普段使わない頭の使い方をしたり、勉強の分野でも難しい問題を解くとドッと疲れが来るでしょう? あれをとびきり強くしたものと聞けば、納得いただけませんか?」
「それは……確かにそんな感じしますけど。じゃあどうして今さら?」
「チップの機能は、脳の途切れてしまった部分にある程度強力な信号を送って開通することですが、普段生きる時に中々使わない部分というものもあるんです。よく、脳は九十五パーセントが使われていないと言われますが、あれはよくある誤解でしてね。実際には信号機のようなものなんです。青、黄色、赤が一斉に点灯するなんてないでしょう? 目的があって、目的のためのランプだけが点いている。それと同様に、脳も目的が無ければ使わない所があるんです」
「じゃあ青信号と黄色信号が同時に光ってるんですか」
「さすが理解が早い。その通りです。普段使わないような回路を使っていて疲れると思いますが、それは一時的な症状と見られます。こう、電気を流して筋肉を鍛える機械があるでしょう。あれのような具合ですから、むしろ疲労の後にはなにもしてないのに賢くなってしまうかもしれませんね」
社長の話は例えがやけに多く、隣で聞いているアイハラには展開が遅くて、どうにもたまらない。
「さて、それでも一応は見ておきましょう。無事だという証明もなしに帰らされては不安でしょう? あぁ、もちろんお金は取りませんからご安心を」
「はぁ……。どうも」
「ではアイハラさん。ご案内して」
「はい。ではアイダさま、こちらになります」
喋る社長と親、そして黙ったままアイダを先導する。
作業部屋の内装は他の部屋と同じだが、ファラデーシールド――電磁波を防ぐゲージで覆われているのだという。
「では、検査しますね、では――」
ヒラサカが患者へ説明を始めたとき。
ふっと、急に頭痛が収まってしまった。
いまのはいったいなんだったのだろう。アイハラは、首を傾げるのだった。
「それで、結局はどのような原因だったと言えるんですか」
記者のイラついた声が、会見会場の空気を支配した。その、圧力のような熱気を身体の芯で感じて、イヤな汗が滲み出る。
その会場にヒサラカ社長の姿はなく、アイハラが矢面に立っている。攻撃の手を緩めさせるためだということで、先輩たちに盾にされてしまった。
どうして被害者ばかりが、こんな目に合うのだろう。そんなことをアイハラは、他人事みたいに思っていた。
「四次元構造トランジスタを持つ4M・OTUというチップがこの技術の中心だったんですけど、それを理解できる人はヒラサカしかいませんでした。なので、技術的なことはよく分からないんです。それに――――同じ問題が起こっているはずの私自身、いまだにピンと来てない、といいますか……」
ヒラサカ社長は、あの調査でとある発見をし、この世から逃げ去った。
だがアイハラにはその発見の恐ろしさが、まったく理解できないままだった。
「す、少なくとも、彼が脳疲症と呼んでいた症状が、施術のしばらくあとに現れることが合図であることは分かっています。頭が異常に疲れた感覚が、突発的に現れるそうです……」
アイダという患者がやってきたあの日、アイハラに訪れたあの症状だ。
確かに恐ろしいように聞こえるけど、後から思い出しても、記憶が消えている訳でもないし、ちょっとヘンなことしちゃったな、なんであんなこと言ったんだろうという、いつも通りの悩みがあるだけ。
ひょっとしたら、ヒラサカ社長の勘違いだった――――勘違いである可能性もある。
いま、また切り替わった感覚があった。だが慣れたもので、脳疲症的な違和感はない。
目前にはネガティブな感情を持つ顔たちと、同数のカメラがこちらを向いている。
「文書の内容ですが、チップにより、ニセモノの人格が植え付けられていたという見解でよろしいですか?」
「ニセモノと言えるか否かについてはハッキリとしたことは言えかねます。たしかにチップの機能は脳の回路の導通だけではありませんでした。患者の家族や友人、勤め先の方達への聞きこみ調査によって
その一言で、目前の怒りの表情のいくつかが怯えの表情に切り替わり、不安の声がいくつも重ねられた。
そのとき、会見時間の終了を知らせるアラームが鳴る。すると、記者が一斉に手を挙げた。まだ発言していなかった人を手で指し示すと、彼は一礼し、新聞社を名乗って、その口を開いた。
「最後にひとつお聞かせください。〝寿命が半分になる〟ということに対し、他でもない被害者であるアイハラさんはどのようにお感じですか」
それに対し、アイハラは、表情ひとつ変えなかった。
「さぁ、分かりかねます」
会場のどこかで、「ダメだこりゃ」と誰か呟いた。
革命を起こしたと、ずっと勘違いしていた。高速化のために直方体という三次元構造を取っている電界効果トランジスタに対し、四次元目として時間軸を導入した四次元構造トランジスタを開発し、それが時間的な要素を使い、瞬時に消費できる情報しか扱えないため、AI人間用の人工知能にピッタリであると焦って急いだところが分岐点だったと思う。
新しい風は疎まれるものとか、批判されたガリレオも最後には正しかったとか、思えばそんな下らないことが理由になるわけなかった。確かに遺族の救いになったが、その先にどんな問題があるか考えず、先へ進めるべきじゃなかった。
実質的な死から引き上げたとばかり思っていたのに、むしろ死への緩やかな下り坂へ送り出していたとは想像だにしなかった。外から見ても同じ人間かだの、そんな哲学的な話かと思えば、まさか本人すら気付いていないとは。
考えるべきだったのだ。植物人間は目覚める可能性があると。人格をAIに代替してから、目覚めたらどうなるのかと。
彼らは人間とAIを交互に行き交っているのだ。人間だったときのことはAIのときに、AIだったときのことは人間のときに、どうしてあのときああ判断したんだろうと思っているに違いない。だがそんなことは日常でも、我々が普通に経験していることだ。怒ったあと冷静になって、なんであんなこと言ったんだろうとか、追い詰められていたときのことを後で思い返して馬鹿馬鹿しいと自分で笑うとか、酔っ払ったときのことなど覚えてさえいないではないか。
問題は、人間が変わっていくことだ。生きれば生きるほど、生きている環境の違いが人間を連続して変えていく。だがAIは変わらない。成長していくことはない。ソフトのアップデートでの断続でしか成長し得ない。そんなことをすれば、自分が自分である保証など無くなってしまう。思考の飛躍と記憶の整合が取れなくなってしまう。だからアップデートはできない。
しかし、このまま放置し続ければ、成長した人間と成長しないAIでズレていってしまう。自分と自分でない存在が、あるいは、成長した自分と過去の自分が、同じ身体同じ記憶をシェアすることになる。そうなれば、人格はあっという間に崩壊していく。それも、人間側のものだけがだ。例え精神病を発症しようが、AIは変われない。発狂して前後不覚になってさえ、AIが目覚めれば正常に戻ってしまうのだ。それを早く分かるべきだった。
技術を思い付いたときに思い付くべき問題だったのだ。だが、今さら遅い。身体と脳の繋がりが全て回復するとは限らない。いや、むしろ脳の適応能力により、チップの機能を前提としてしまうために、自助での身体活動ができなくなってしまう。チップを取り除いたとき、彼らが意識を脳に宿したまま繋がりが絶たれ、ジョー・ボーナムとなってしまうのだ。
だから、放置するしかない。クライアントは死ぬより怖い死を、懸命に生きるほど早く味わうことになる。自分でなくなった自分が、人生の半分を浪費していくのを、後から思い出して震えるしかないのだ。
せめて、意識障害で眠った人格が、目覚めることなく、死ぬまで死に続けていることを願うしかない。
私にはもう何も出来ない。せめて償いとして、早くに去ろうと思う。
最後に一つ。
申し訳なかったと思う。
寿命半減スイッチ 能村竜之介 @Nomura-ryunosuke
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