第三話「塾での日常。夜が近付く」

 五月も暮れる頃、私は高校に入って初めての中間テストの結果を母親に見せると、いつも穏やかな笑みを浮かべている母が表情を強張らせ、青ざめた顔で結果の書かれた紙を床に落とし、震える手で近くの塾をスマホで検索し始めた。

 ほぼすべての数字が赤色に染まっている落ちた紙を見つめながら、母の行動を止めることもできず見守っていると、提案されたのが望月塾だった。


 そんな過去を経て、今日も私は空井高校の近くである望月塾に通っている。

 生徒のペースに合わせて授業を行うことを売りにしている望月塾は、生徒二人、先生一人で行う個人塾である。

 つるりとした表面の白い机と、目の前にはセミナーや合宿の宣伝をするチラシが所狭しと貼られた小さな白い仕切りに隔てられた空間で、私はゆっくりと数学の問題集の前のページをめくって、担当の先生が隣の席で他の生徒に解説が終わってこちらに来るまでぼんやりと時間を潰していた。


「あれ、笹川さん、今何ページ?」

 石塚拓(いしづか ひろむ)先生が隣にやって来たので私は自信満々な瞳を先生に向けた。

「ゼロです」

「……ゼロかぁ」

 口の端を困ったように上げて笑う彼は、悪びれもなくサボっていた私への言葉を探すよう頭を軽く掻いた。彼の癖のある髪の毛が少し揺れる。 

「うーん、そんな真面目な表情で解くことを諦められてもなぁ」

「諦めたんじゃないですよ先生。私は認めたんです、この問題が解けないことを」

 そして、数学が理解出来ないこともね、と心の中で付け足す。

「だからどうして出来てないのに偉そうなのさ」

 石塚先生の眼鏡の奥に、どうしたものかという困惑の色が窺える。

 私は土下座でもしそうな勢いで正直に答えた。

「嘘です、さっぱり分からないです、石塚先生教えて下さい」

「はいはい、笹川さんは素直でよろしい」

 普段他人とは連絡事項ばかりの会話を得意とする、話をするのが苦手な私でさえも冗談を言ってしまうほどの話しやすさと、つい気を許してしまえる物腰の柔らかさを持つ石塚先生は私の担当の先生だ。

 理想の頼れるお兄さんのような彼から、自分は大学二年生だと言われたときに「四つしか歳が離れていないじゃないですか!?」と驚いたのはつい最近だ。

 転がる椅子でやって来た石塚先生は、問題集を見て「応用か」と一言呟いた。

「ここ、さっき一緒に解いた基本問題に出てきた公式を一度当てはめてから、代入先を変えたら出来るよ」

「あっ、……なるほど」

「絶対分かってないよね」

「……」

「まぁいいや。時間も無いから解説だけプリントして渡しておくよ」

 感謝……というように両手で拝もうとすると、彼の眼鏡はいじわるく輝いた。

「その代わり、解けなかった同じような問題も一緒にプリントして、今日の宿題に加えておくね」

「ええ〜〜」

「七月の期末テストの時も出たんでしょ。復習も兼ねてここ絶対覚えておいた方が得だって」

 私は隣の生徒を見るフリをしてテストの話から背を向けると、先ほどまで教えてもらっていた生徒は帰り支度をしている。どうやら、先に授業が終わったらしい。

 時計を見たら時刻は二十時近く。ちょうど授業が終わる数分前だった。

 早く終わっている人が今日は多いのか、周りは着々と帰っている。

 残って先生と雑談をしている生徒もいるので、徐々に教室中に広がっていた先ほどまでの凛とした空気が溶けて、色づく言葉が飛び交っていく。

 石塚先生も、私に対して今日の授業を切り上げることにしたのか、プリントの印刷をしにコピー機の前に向かった。

 高校に行ってから制服姿のまま学校に来た私は、プリーツのスカートのヒダを手で押さえて、そわそわとし始める。

 鈴山が何故、河川敷に向かう時間を聞いてきたのか、今頃になって気になってしまったのだ。

 もしかしたら、また会えるのかも。いないのかも……と考えを巡らせている中、プリントの束が机の上でぱさり、という音を立てた。多すぎないか?

「はい、今日の宿題ね。多い?」

「全然、大丈夫です」

 動揺を悟られたくなくて、私はつい言ってしまうと、石塚先生は意外だと言うような表情をしてから

「そう? 大丈夫だったらもう少し宿題増やすね」

 と、意気揚々と持っていた問題集を再度開いた。

「鬼塚先生……ッ!」

「石塚です。なんとでも呼びなさい。大丈夫やればできる子だよ笹川さんは」

 プリント以外にも宿題にするところを探しているのか、高速でめくりながらページを目で追っている。これ以上どれだけ増やすつもりなのか。

 ページ数をサラサラとノートに記している様を不満げにじっと見つめていると、石塚先生は視線だけこちらを向いた。

「笹川さんってさ、文系とか理系って決めている? 二年生からクラス別れるんだよね」

「……まだ分からないです」

 理系だとか文系だとか、正直に言えばどうでも良かった。そもそも本当に私は大学生になることが出来るのかわからない知能である。

 学びたい学問があれば、とぼんやり考えてはいたが、それと言ってまだ見つかるはずも無く、未来も何も分からない。

「石塚先生はどうやって決めました?」

 話題を逸らそうと、石塚先生に振ると、彼は問題集から目を離さずに応えた。

「僕? うーん……。今僕が通っているのは空井駅から電車で三十分あるかないかってくらいの場所の南雲(なぐも)駅にある『保志門(ほしかど)大学』っていうとこなんだけどね。保志門は天文学に熱を入れている学校だったから、そこが決め手だったかな。僕、宇宙とか好きだし」

「そんな理由ですか」

「好きって結構動く理由としては大きいよ~。まぁ、僕もギリギリまで迷っていたしさ。そんな苦い顔せずに、じっくり決めなさいな」

 石塚先生は私に焦らせることは言わない。ありがたいことだけれど、内心はやはり心配なのだろう。宿題の多さが彼の不安を物語っている。

「明日は、自習来る? もし来れそうだったら応用問題の宿題も追加しちゃおうか?」

「スパルタ……」

「冗談だよ」

 しかめ面をして、絶対に明日は行かないと決意を固めた顔で言うと、彼は優しい声音で付け加えた。

「自習も良いけどたまには友達と遊んで来なよ。勉強する以上に何か学べるかもしれないからさ」

 どういうことだと疑問を返す前に答えを遮るように「はい、これ宿題ね」と、言って石塚先生は、私に宿題のページ数や内容が記されたノートと問題集を手渡した。

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