岩戸隠れ
「待て! 咲耶! 一人で行くな!」
咲耶は無我夢中で飛び出した。後ろからは紫貴の声が聞こえてくるが、それはすぐに聞こえなくなった。
どうして、どうして。焦りで気持ちが急く。
以前教わったとおり、足に力を流し、目一杯地面を蹴った。一分でも、一秒でも早く、恭一郎と香世子の元へ急ぐために。
ギリ、と奥歯を噛み締める。まだ、二人にこの制服姿を見てもらっていない。つい先日、共に戦う仲間だからと紫貴から賜ったものだ。
セーラー襟がついた、深紫色の洋装制服。動きやすさを重視し、ジャンパースカートは膝丈だ。リボンは、香世子からもらったストールをつけている。
いつか、胸を張って見せるつもりだった。忌み子だということを気に留めることなく、共に戦う一員として認められている。だから、自分は大丈夫だと、離れて暮らしている二人を安心させるために。そのために、制服姿を見せようと、そう思っていたのに。
ふと、鉄のにおいが鼻をかすめる。この辺りに住む藤村姓の者が襲撃されたようだ。
これほどまでに正確に狙えるとは。一週間ほど何も動きがなかったのは、藤村姓の者を調べていたのか。だとすれば、なんて執念。しかし、その意図がわからない。
(春水様の命を奪ったものの、酒呑童子が想定していた事態には及ばなかったから?)
咲耶を怒らせるためだろうということはわかっている。実の父親が駄目なら養父母を、と標的にしたのか。
だが、酒呑童子は咲耶の養父母を知らない。そのために、藤村姓の者を片っ端から襲い始めたとすれば。
(わたしのせいで、お父様やお母様が、春水様が……他の人々が、巻き込まれている)
早く止めなければ。これ以上犠牲者を、恭一郎と香世子の命を奪わせてなるものか。二人が待つ家へと急ぐ。
あと少し。あと少しで家に着く。というところで、咲耶の足は動かなくなった。
まるで、時間が止まったかのように、早鐘を打つ心臓の音だけがうるさく聞こえる。呼吸すらも忘れ、喉はひどく乾いて声が出ない。
目の前に広がる光景は、地獄そのもの。地面に倒れたまま動かない者達と、鼻をつく血のにおい。手負いの状態である尊や、他にも数人が鬼と対峙している。そして──。
「さくちゃん、見ちゃ駄目だ!」
尊の叫ぶ声が聞こえるも、視線を外すことなどできなかった。
暗闇だというのに、鮮明に見える赤。
それは、酒呑童子とは違う別の鬼の右腕によって腹部を貫かれた恭一郎から、どくどくと流れていた。鬼の足元には、血塗れになった香世子が倒れている。
「お前が藤村咲耶かあ。では……我は当たりを引き当てたかなあ?」
気怠そうに顔を傾け、口角をこれでもかと上げて笑う鬼。何がそんなにおかしいのか。
人の親を、傷つけておいて。
「ほれ、見ろ。見ろ! お前の養父の姿を! だらしなく開いた口から血を垂らしているぞ? 拭ってやらなくていいのか?」
「……うるさい」
「土手っ腹にも穴が開いて、風通しもよくなったなあ。感謝しろよ?」
あれは挑発。乗る価値もない。落ち着いて行動をしなければ。そうわかっていても、怒りで頭がどうにかなりそうだ。
「もっとだ。もっと怒れ。ははっ、楽しいなあ。ああ、楽しい。こうして人間を手駒にしている時間が一番楽しい。そうだ、次は養母の頭でも踏み潰すか」
鬼が片足を上げた瞬間、身体が動いていた。落ちていた剣を手に取り、力を込めると一気に鬼との距離を詰める。
この鬼だけは、絶対にこの手で倒す。
「酒呑童子には悪いが、藤村咲耶は我が」
左から右へと振り切り、香世子の頭を踏み潰そうと上げていた左足を斬り落とす。
え、と間抜けな声が聞こえてきた。この鬼は嬲ることばかりを考えていたのだろう。左足を斬り落とされたことで、自分の身に何が起きたかを理解したようだ。
ようやく咲耶を警戒し始めたが、時すでに遅し。次は右下から左上へ斬り上げ、鬼の右腕を飛ばした。
「ぐああぁぁぁあぁああ!」
左手、右足のみになった鬼は体勢を崩し、叫び声を上げながら大きく後ろに傾いていく。咲耶は勢いよく地面を蹴ると、鬼の真上まで飛び上がった。剣を振り上げると、必死の形相で鬼が左手を伸ばしてきた。
「や、やめ、やめろ、やめろやめろやめろおぉぉおおおぉ!」
「人間の命乞いは嘲笑うくせに。潔く、死んでください」
言い終える前に振り下ろし、鬼の首を斬る。そこで刀身は限界を迎えたようで、粉々に砕け散ってしまった。
咲耶が地面に降り立つと同時に、首を失った鬼の身体が倒れる。見向きもせず、急いで恭一郎と香世子の元へと走った。
尊によって二人は横並びで寝転ばされており、その間でしゃがみ込む。手を握るも、どちらもひんやりとしていた。
「お父様! お母様!」
「さ、く……や……」
呼びかけに反応があったのは恭一郎のみ。香世子は目を瞑ったまま、動かない。
「香世子、は、もう」
「す、すぐ、すぐに治癒します。そうすれば、きっと。お母様だって、目を開けてくれるはず」
言葉の続きを聞きたくなかった。
香世子は眠っているだけ。そうに決まっている。そうだ、死んでなどいない。言い聞かせ、咲耶は恭一郎の腹部に刺さったままの鬼の右腕を見た。抜いてやりたいが、腕のおかげで出血がこの程度で済んでいることもあり、どうすることもできない。
ひとまず、このまま治癒を、と天照大神を依り憑かせようとするも、恭一郎は小さく
「いい……その力は、他の人へ、使いなさい。私はもう、助からない」
「なん、で……そんなこと、言わないでください」
まだ生きている。もうすぐ死ぬかのような言い方をしないでほしい。咲耶は恭一郎の言葉を聞かずに力を使おうとすると、右肩に手が置かれた。
振り向くと肩で息をしている紫貴が立っており、咲耶がしようとしていたことに気付いていたのだろう。ゆるゆると首を横に振られる。
もう、何をしても駄目なのか。助からないのか。命が燃え尽きるその瞬間を、見届けなければならないのか。全身から力が抜け、咲耶は項垂れた。
「恭一郎殿、香世子殿は……」
「先に、逝きました。私も
視界が滲み、大粒の涙が溢れ出す。
けれど、恭一郎も香世子もいないこの世界で、たった一人で生きるなんて。
「一人に、しないで」
止め処なく溢れる涙。頬を伝い、ぽたり、ぽたりと落ちていく。漏れそうになる声を抑えていると、恭一郎の手が咲耶へ向かって伸ばされた。その手を掴むと、弱々しく握り替えされる。
恭一郎の力は、こんなものではなかった。とても力強く、逞しかった。それが、こんなにも。
「その、制服。よく、似合って、いる」
こんな状況だというのに、何を言っているのか。そう思ったものの、咲耶は涙を流しながらも笑顔を浮かべる。
「帝様が、選んでくださったのです。見てください、リボンはお母様からいただいたスカーフなのですよ」
声が震えた。見てもらいたいとは思っていたが、決してこのような形は望んでいなかった。それは、恭一郎も同じだろう。されど、もう今しかなかったのだ。
これが最期の会話になると、わかっていたから。
笑顔が崩れ、涙が止まらない。すると、優しく肩を抱かれ、引き寄せられた。
「恭一郎殿。俺も咲耶の傍にいます。決して、一人にはしません」
「あり、が、とう、ござい、ます」
安心したかのような笑みを浮かべると、恭一郎はゆっくりと目を閉じていく。
「香世子と、二人、で……ずっと、見守って、いる、から」
「お父様! 嫌! 目を開けてください!」
「しあわ、せ……に……」
するりと恭一郎の手が抜け、地面に落ちた。
「嫌! お父様! 目を開けて! お父様! お父様!」
何度も何度も呼びかけるが、恭一郎の目が開くことはない。咲耶は呆然としながら、宙を見上げた。
恭一郎も香世子も、順調に歳を重ね、最期は眠るように亡くなるのだと思っていた。家族に見守られながら、安らかに。
まさか、こんな別れ方をすることになるなんて。
痛かっただろう。苦しかっただろう。辛かっただろう。
二人の微笑む姿が脳裏を過る。いろんなことがあった。これから先も、いろんなことがあるはずだった。そのすべてが奪われ、もう戻ってこない。
心の深い場所から、冷たく鋭い感情が湧き出てくる。駄目だと、このままでは酒呑童子の思う壺だとわかっていても、止められない。
怒りが、咲耶を暗い闇の底へと引き込んでいく。
その怒りに呼応するかのように、低い唸り声のような音が大地から響き渡った。いくつもの岩の塊が地中から現れ、積み上がり、形成していく。
咲耶達を覆い隠す、石窟へと。
「まさか、これは……駄目だ、咲耶! 怒りに呑まれるな!」
「帝様! 危険です、離れてください!」
「離せ、尊! 咲耶!」
紫貴が咲耶から離れたと同時に、最後の岩が石窟を閉ざした。
広がる暗闇。今の咲耶の心を表しているかのようだ。でも、これで一人ではない。恭一郎がいる。香世子がいる。
外からは紫貴の声が聞こえてくるが、咲耶は静かに目を瞑った。
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