心までは
何が起きてもすぐに対応ができるよう体勢が整えられ、一週間ほどが経過した。
こちらが警戒を強めていることを感じ取っているのかはわからないが、酒呑童子はおろか、魑魅魍魎ですら姿を見せない。不気味なほどに、静かな夜が続いている。
ただし、それは帝都に限った話だ。今、咲耶は悶える紫貴の身体を抱きしめていた。
春水の件があったあの日から、紫貴は毎晩呪いに苦しめられている。何が起きているのかはわからないが、呪いが急速に彼を蝕んでいるように思えた。
二本の赤黒い角は初めて見たときと比べると伸びており、爪や歯もより鋭さを増している。今日は、意識が混濁し始め、咲耶の首筋に食らいつこうとしていた。
していた、というのは、寸でのところで紫貴が自我を取り戻し、事なきを得たからだ。が、それで終わったわけではない。
「……っ」
強く抱きしめられたかと思うと、紫貴の鋭い爪が背中に食い込み、皮膚が破れて痛みが走った。耳元では唸るような苦悶の声が聞こえ、今もなお、内にある衝動と戦っているのが伝わってくる。
長めに息を吐き出し、痛みに耐える。この程度であれば、なんてことない。
それよりも、辛いのは紫貴だ。咲耶も天照大神の力を借りてぬくもりを与え続けてはいるが、前回とは異なりうまく伝わっていかない。まるで、阻まれているかのように。
これも、咲耶を怒らせようとする酒呑童子の策略なのか。それとも、別の思惑があるのか。どちらにせよ、嫌がらせに長けていることは間違いない。
「さく、や」
これまで苦悶の声だけを漏らしていた紫貴が、酷く掠れた声で咲耶の名を呼んだ。それが何とも悲痛で、胸が痛む。咲耶はそっと紫貴の胸元へ顔を埋めた。
「はい、帝様。わたしは……咲耶は、ここにいます」
「声が、する。お前は、鬼だと。そうだ、俺は咲耶を喰らおうとした。俺は、鬼だ」
何も聞こえないが、紫貴には聞こえているのだろう。酒呑童子がどのような手段を用いているかはわからないが、どこかで様子を窺いながら弄んでいるようにしか思えない。こうしている間も、呪詛の如く囁いているはずだ。
されど、会話ができるということは、多少は呪いが落ち着いてきているのかもしれない。咲耶は背中に回していた手を離し、少しばかり距離を取ろうと紫貴の両肩を押してみる。
すると、すんなりと押すことができた。食い込んでいた爪も、身体から抜けていく。力強く抱きしめられていたが、いつの間にか緩められていたようだ。というよりも、全身から力が抜けている。血の気が引き青白くなった紫貴の顔からも、気力を感じられない。
紫貴は、咲耶を喰らおうとしたことに動揺している様子だった。そこへ、追い詰めるかの如く「お前は鬼だ」と声をかけられているのか。
なんて、酷い。紫貴の顔を両手で包むように触れる。
酒呑童子の言葉などに、耳を傾けなくてもいい。何故なら、紫貴は──。
「帝様は、鬼などになっていませんよ」
二本の角、赤く妖しく光る瞳、鋭い爪と牙。はたから見れば鬼そのものだが、違う。
心までは、鬼になっていない。
「……咲耶を、喰らおうとした」
「ですが、自我を取り戻されました」
「またいつ喰らおうとするかわからない」
「そのときもきっと、自我を取り戻されます」
どうして、と声を絞り出すと、紫貴は表情を歪ませた。今にも泣き出しそうな、そんな顔をしている。それだけ、動揺しているのだ。
こんなにも、鬼に近付いてしまっている自分自身に。
「俺に喰われそうになり、恐怖を抱いただろう。それなのに、どうして……どうして、そのようなことが言える。俺から離れようとしない」
「帝様のことを、信じているからです」
紫貴は双眸を見張った。
「怖くはなかった……といえば、嘘になります。ですが、それ以上に貴方を信じる心があります。帝様のお力だけではなく、心を信じているからこそ、こうしていられるのです」
紫貴が初めて助けてくれたあの日から、すべてが始まった。
出会ったときから一貫した優しさ、誠実さ。
どんなときでも寄り添ってくれた。言葉をかけてくれた。
何よりも、どんなに苦しい状況でも、決して他者を犠牲にしない、彼の芯の強さ。
紫貴の心は、咲耶にしっかりと届いている。伝わっている。だからこそ、信じられるのだ。
たとえ、その身が鬼になろうとも。心までは鬼にはならない。衝動に駆られることがあっても、紫貴ならば必ず自我を取り戻すと。
「……以前も、言っていたな。俺のことを、信じていると」
二本の角が、静かに縮んでいく。赤く光っていた瞳も元の色を取り戻し、爪や牙も元通りになっていった。
咲耶の手に、紫貴の手が重ねられる。その手からはぬくもりを感じ、何故だかとても心が落ち着いた。これまで、ぬくもりを分けようにもできなかったからだろうか。
「俺は……俺自身を信じることができない。人間だと思っていても、鬼になどなるものかと思っていても。どれだけ抗おうが、鬼としての衝動が強くなりつつある」
「帝様……」
「今日は、抗えなかった。咲耶を喰らおうとしただけではなく、傷つけてしまった」
ますます自分のことが信じられなくなった、と紫貴は苦々しそうに吐き捨て、咲耶を見る。
「……咲耶も俺のことを信じられなくなるだろうと思っていたが、まだ俺を信じてくれるのか。恐ろしい目に、遭わせてしまったというのに」
「はい。帝様を疑ったことなど、一度もありません。何があっても、信じています」
紫貴の空いている手が、咲耶の頬に触れる。ゆっくりと撫でたあと、飾らない、年相応の笑みを浮かべた。
「信じてもらえるというのは、こんなにも心強いのだな。……ありがとう。咲耶が俺を信じてくれていることが、とても嬉しい」
言い終えたあと、紫貴はぐらりと大きく身体を揺らし、こちらへ倒れてきた。慌ててその身体を支えるも、息が荒い。
呪いに抗っていたのだ。体力が酷く削られてしまっているのは当然だ。布団へ寝転ばそうにも、少し離れていて体格差のある咲耶では厳しい。誰かを呼んで手伝ってもらうかどうか悩んでいると、紫貴に今度は優しく抱きしめられる。
「帝様?」
「いつもこうして抱きしめてくれているだろう」
「そっ、そう、ですね。その、呪いと戦われている帝様のお力になれないかと……」
「なるほど。それならば、手を握るだけでも効果はあると思うが」
え、と思わず声が出た。
固まっていると、クスクスと楽しそうに笑う紫貴の声が聞こえてくる。
「最初がそうだったものな。気にせず、これからもこうして抱きしめてほしい。何せ心地良いからな」
紫貴の言うとおり、呪いに対して力を使ったときに抱きしめていたため、こうしたほうが効果があるのだと思い込んでいた。
これは恥ずかしい。熱が集中した顔を見られないようにと動かしたとき、紫貴の鼓動が耳に入ってきた。
──何となくだが、速い。
依然として息は荒く、そのせいで鼓動も速いのかもしれない。おそらくそうだ。そうでないとすれば、と別の考えが過るも「ありえない」と一蹴した。
それはあまりにも、妄想が過ぎる。というよりも、本当に何を考えているのか。
紫貴が、緊張しながら咲耶を抱きしめているなど。
このままでは変なことばかり、いや、不敬なことばかり考えてしまう。咲耶は紫貴へ話しかける。
「あ、の、お布団で寝転ばれたほうがよろしいかと」
「……いや、このままがいい」
「で、でも、お身体が辛くはありませんか?」
「辛くない。癒やされている」
そんな馬鹿な、と言いたくなる気持ちを抑えながら、何度も交渉するがまったく成立せず。
なかなか頑固だと思っていると、廊下を慌ただしく走る音が聞こえてきた。途端、二人に緊張が走る。
その足音は、紫貴の閨の扉の前で止まった。紫貴が身体を離し、よろめきながら立ち上がる。
「伝令です! つい先程、酒呑童子ならびに魑魅魍魎の襲撃を確認!」
「とうとう動き出したのか。……待て。何故今動き出した? 朝も近いというのに」
「引く気配は一切なく、それと、何故か……」
そこで言い淀んだからなのかはわからない。
ただ、咲耶は自然と立ち上がっていた。
「藤村姓の者ばかりが、狙われています」
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