後悔
──春水が亡くなった。
遺体は既に運ばれ、今は紫貴達が彼の部屋を調べているところだ。その様子を、咲耶は部屋の外でぼんやりと眺めていた。
実の父親だと知ったのは、つい最近。親子関係を築き始めたところ、というわけでもなく。
とはいえ、だ。実の父親が亡くなったことに、何も思わないわけではない。
春水を避けていた咲耶が抱くには、烏滸がましい感情。わかってはいても、悲しみと、それ以上に怒りが込み上げてくる。
そのとき、右肩に優しく手が置かれた。意識が引き戻され、心配そうな顔で咲耶を見る紫貴と視線が交じる。
「……咲耶、唇から血が出ている」
おそるおそる右手の人差し指で唇に触れると、ぬるりとした液体が指先についた。どうやら、無意識に唇を強く噛んでいたようだ。
静かに手を下ろし、顔を俯ける。
「ここは俺達に任せて、閨に戻るといい。このような現場を見るのは、辛いだろう」
「……違うのです」
咲耶は小さく首を横に振った。
ここにいるのは辛くはあるが、そうではない。
「実の父だと言えど、春水様のことは苦手でした。亡くなられた陽葉様を慮ることなく、巫という存在だけを大切にされていて……」
忌み子である咲耶が生きていたことも喜んではいたが、あれは「巫を失わずに済む」ため。神森家当主という矜持が、彼を突き動かしていたのだろう。
それでも、巫の死ではなく、娘の死を悼んでほしかった。巫を失わずに済むことを喜ぶのではなく、娘との再会を喜んでほしかった。
神森家当主である前に、咲耶と陽葉の父親なのだから。
そこから生まれた苦手意識。春水の中では、娘としてではなく、巫としての存在価値しかないのだろうと思っていたからだ。
でも、と声が震える。
「今になって、後悔しているのです。もっと……もっと、話しておけばよかったと。そうすれば、少しは」
そこで口を噤んだ。
結局は、春水の一部分だけを見て、そう思い込んでいただけ。苦手だからと避けずに、話しておけば。知ろうとしていれば。違う側面も見えて、少しは見方が変わっていたかもしれない。親子としての関係が築けていたかもしれない。
春水が亡くなった今。どうすることもできないというのに、そう思ってしまうのだ。
後悔先に立たずとは、まさにこのこと。そして、身勝手なことばかり考える自分に嫌気がさし、怒りが沸々と込み上げてくる。
「人間とは、往々にしてそういうものだ。身近にいる者は、明日もここにいると信じて疑わない。だから、いなくなってから後悔する」
顔を上げると、紫貴は寂しそうな笑みを浮かべていた。
「俺もそうだ。日常というものは永遠に続くものではないとわかっていても、何度後悔したかわからない」
「ですが、このような自分勝手な後悔……」
「後悔とは、そういうものだろう?」
何を言っているのかとでも言いたげに首を傾げるため、咲耶は口籠もった。紫貴の言うとおりだ。
後悔とは、自分のしてしまったことを後で悔やむこと。
自分勝手で、当然だ。こんなことにも気付けないほどに、感情に振り回され、思考が鈍っていた。余裕がなかった。
「後悔はしないほうがいいが、まったくしないというのは難しい。何せ、失ってから気付くことのほうが多い。こうしておけば、ああしておけば、というのは、無限に沸く」
「……そう、ですね」
生きている間に春水と話ができ、親子関係が改善されつつあったとしても。そのときはそれでいいかもしれないが、今のように失えば別の後悔が生まれているはずだ。
後悔しない道は、どこにもない。
「帝様、お話中失礼いたします」
紫貴の背後から聞こえた声に、視線を向ける。声をかけられた紫貴もまた、身体を僅かに動かして口を開いた。
「
「結界の一部が破られており、そこに酒呑童子の妖気を感じました」
「……っ、で、では、春水様は」
咲耶が言わんとしていることを察し、清孝が小さく頷く。
「春水様に致命傷を与えたと思われる箇所からも、同じように」
息を呑んだあと、紫貴と顔を見合わせる。
あのような惨いやり方。誰かに命を奪われたのだろうということは見て取れたが、まさか酒呑童子とは。
しかし、紫貴や咲耶を狙うならまだしも、何故春水を狙ったのか。酒呑童子の目的が読めない。指で眼鏡をあげると、清孝は紫貴を見る。
「神森家を潰すことが目的でしょうか。当主を葬れば、統率が取れなくなります」
「それが目的ならば、早くに潰していただろう。喰った形跡もないことから、喰うために忍び込んだわけでもない。だが、春水殿でなければならなかった理由がある」
そう言って、紫貴は眉間に皺を寄せた。
何か力になれることはないかと、酒呑童子と初めて対面したときのことを思い出す。畜生腹から生まれた子と嘲笑われたこと。紫貴の呪いのこと。思いどおりにいかず、地団駄を踏みながら太陽の真似事とも言われ──。
「あっ」
「どうした?」
「い、いえ、あの……酒呑童子と対面したときに、言われたことがありまして」
関係しているかはわからないが、と前置きをし、咲耶はあの日言われたことをそのまま口にする。
「太陽は隠れるべきじゃあ。安心せい、儂がその舞台を整えてやろうて」
一度、世界が暗闇に包まれたことがある。天照大神による、岩戸隠れ。酒呑童子はそのことを言っているのだろうが、今回との関係性はあるかどうか。
咲耶はそう思っていたが、紫貴と清孝は目を大きく見開いていた。
「狙いは、咲耶か」
「はい、おそらく」
「わ、わたし、ですか?」
紫貴は小さく頷く。
「酒呑童子は、陽葉の顔を知っている。嫌なことに、頭も回る奴だ。咲耶を一目見れば、大体のことは察するだろう」
「それで、春水様を……? そうだとしても、どうして?」
「岩戸隠れは、天照大神様の怒りがきっかけだ。推測だが、父親の命を奪うことで、咲耶を怒らせようとしたのかもしれない」
太陽の真似事だと、酒呑童子は言っていた。つまらない、とも。太陽は、酒呑童子や魑魅魍魎から見れば、自分達を脅かす存在。隠れるべきだと言ったのは、その存在が気に入らないのだろうとは思っていたが。
両手を胸元で強く握り締める。勝手気侭にこの世界を、人々を蹂躙しておきながら、こちらが戦う手段を手に入れると気に入らないとしたい放題。
やはり、相容れることはできない。根本的に、生き方も考え方も違う。
「帝様、酒呑童子はまた何か仕掛けてくるのではありませんか。それこそ、次は咲耶様を狙ってくることも考えられます」
「いや、咲耶を狙うのは最後だろう。酒呑童子は、俺達人間の絶望する顔が見たいようだからな」
心底、吐き気がする悪趣味。だからこそ、陽葉や春水、他の人々へも酷い仕打ちが平気でできてしまうのだろう。
「……嫌な予感がする。咲耶は、俺から離れるな」
「は、はい」
「清孝は、尊、正宗、勇に声をかけ、守護隊、八十神家の部隊と共に帝都の守護へ」
「はっ」
紫貴から指示を受けた清孝は一礼すると、この場を去った。
──何となく、咲耶自身も嫌な予感がしていた。いつもと違うのは、それが言葉にできないこと。神楽殿へ行った方がいい、と言ったような、明確なものがないのだ。何か一つでもわかることがあれば、動きやすくもなるのだが。
それに、と視線を落とす。
紫貴が言っていたとおり、怒らせるために実の父親を狙ったのだとすれば。
脳裏に、恭一郎と香世子の姿が浮かんだ。酒呑童子は、名字が神森ではないと知っている。されど、藤村姓は珍しいものではない。そもそも、養父母が誰かまではわからないはず。そう言い聞かせるものの、不安は募るばかり。
今すぐにでも二人の元へ駆けつけたいが、下手に動くことはできない。日中は姿を見せないと言えど、どこで情報が漏れるかわからないからだ。
(お父様、お母様。どうか、どうかご無事で……)
会いに行けるようになれば、すぐに会いに行く。それまでは、無事で。
そう祈ることしかできない歯がゆさに、咲耶は奥歯を強く噛み締めた。
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