第三章

大切なもの

 春水は盃を手に持ち、ぼんやりと空を眺めていた。

 外では神森家の者が人々を護るためにと結界を張っているが、手伝う気にもなれない。何しろ、手を貸したところで意味を成さないのだ。

 巫覡ふげきの者である四家しけが揃ってこそ、強力な結界が張れる。が、今はもう神森家のみ。少しずつ数も減っているため、今ではいとも簡単に破られてしまう。結果、犠牲者は増え、八十神家の者も数が減りつつある。それでも結界を張り続けているのは、ただ家名を守るためだ。

 盃を傾けて酒を飲み干すと、春水は深い溜息を吐いた。酒瓶を持ち、空になった盃に酒を注ぐ。

 日に日に、苛立ちが増していく。

 神森家の結界は役に立たない。それは国民も薄々気付いている。百年ぶりに生まれたかんなぎで威信を取り戻したというのに喰われ、間引いたはずの忌み子が生きていたかと思えば──気に入らない。

 拒絶を滲ませるあの目。厚意を蔑ろにするあの態度。

 何をそんなに嫌がるのか。嫌うのか。春水には理解ができなかった。

 巫が失われずに済んだと喜ぶことは至極当然。神森家の巫として相応しい名を与えてやるのも実の父親の務め。

 それなのに、

 思い出すだけで腹の中が煮えくり返る。何もわかっていない庶民──いや、忌み子の分際で。

 春水は、手に持っていた盃を壁に向かって放り投げた。パリン、という音と共に、酒と盃の破片が飛び散る。

 巫として生きる決意を固めたと、つい最近耳にした。依り憑かせる神が、天照大神だということも。

 それであれば尚のこと、神森家にふさわしい名を名乗るべきだというのに。今も育ての親が付けた名を名乗っている。春水のことを拒絶してか、一度も会いに来ない。

 何もわかっていない。神森家の血が流れていることを。神森家の巫であることを。


陽葉ひよであれば、私の言うことを聞いていたというのにぃ……!」


 生きていたことを喜んだが、それが間違っていた。死んでいればよかったのだ。


「そうすれば、陽葉が天照大神様のお力を」

「陽葉とは、儂が喰らうた巫じゃなあ」


 ぞわりと身の毛がよだつ声。おそるおそる振り向けば、欄干らんかんの上でしゃがみ込んでいる酒呑童子がいた。


「ど、どどど、どうやってここへやってきた! けっ、結界は」

「お前も神森家の者。わかっとるんじゃろう? こんな取るにも足らん結界、他の奴らに多少の効果はあっても、儂には意味がないと」

「だっ、誰──ぐっ!」

「静かにせい。何、ちいっとばかし、訊きたいことがあってなあ」


 気が付けば、人の頭など簡単に握り潰せてしまいそうなほどの大きな手が春水の顔面を覆っていた。

 何も見えない。顔面を掴んだ手で持ち上げられているようで、足は宙を歩いている。経験したことのない恐怖に浅い呼吸を繰り返していると、酒呑童子がくつくつと笑う声が聞こえてきた。


「まあまあ、そう怯えるなて。答えればいいだけじゃあ。なっ、簡単じゃろうが?」


 陽葉は、酒呑童子に腸を喰われていた。それも、喰い散らかすように。

 答えなければ、二の舞を演ずることになるだろう。答えることで喰われることを阻止できるのであれば、何でも答えるしかない。春水は小刻みに何度も頷いた。


「藤村咲耶という女子を知っているよなあ? お前が、畜生腹から生ませた巫じゃあ」

「た、確かに神森家の忌み子だが、あ、あれの何が知りたいのだ」

「大切にしているもの。岩戸隠いわとがくれを再現してやろうと思うてなあ」


 ほれ、親ならわかるじゃろう、と答えを促されるも、春水はガタガタと身体の震えが止まらなかった。

 岩戸隠れ。それは、天照大神がいかり、天岩戸あめのいわとに隠れたことで、世界が暗闇に包まれた伝説。

 酒呑童子は、それを再現するために大切なものを訊いてきたのだ。

 何をするかは知らないが、大切なものを使って怒らせ、伝説を再現するつもりなのだろう。実際にできてしまえば、世界は再び暗闇に包まれてしまう。

 答えてはならない。何より、わかるわけがないのだ。親子として過ごした時間は皆無。今も拒絶されているというのに、大切にしているものなどわかるわけが──。

 いや、ある。確証はないが、間違ってはいないはずだ。

 ごくりと喉が鳴る。答えてはならない。答えてしまえば、待ち受けているのは暗闇。魑魅魍魎の世界だ。

 けれど、恐怖が勝る。答えなければ、春水を待ち受けているのは。


「……親だ。それも、育ての、親」


 そう、これは仕方のないこと。答えなければ、死んでしまうのだ。

 それに、このまま放っておくことはしない。春水が言ったということを伏せつつ、このことをすぐさま伝えれば帝達が動き出すだろう。そうすれば、世界に危機は訪れない。

 そして、実の親である春水を見直すはずだ。何故なら、育ての親の危機を真っ先に察知し、助けに行くよう進言するのだから。


「お前、何を笑っておるんじゃあ?」

「へ?」

「儂に人間のことはようわからんが、親は子を死ぬ気で護るのがお前らじゃろうが。こうも簡単に売るとはなあ。そんなにも我が身大事か」

「ちっ、ちが」


 みし、という音と共に、激痛が走った。酒呑童子が春水の顔面を掴む力を強めたため、骨が軋んでいるのだ。


「ぐああぁぁあ! な、何故だ! 私は、こっ、答えたというのに!」

「んー? 答えたからなんじゃあ? 答えるだけでいいとは言うたが、答えたら生かしてやるとは一言も言うとらんじゃろう」


 そうだ、酒呑童子は答えた後どうするかは何も言っていない。ただ、春水がそのように思い込んでいただけだ。


「親は元々狙うつもりだったがなあ。そうかそうか、大切なものかあ。これは良いことを教えてもらったものじゃあ」

「あ、が……っ」

「感謝しとるぞ。藤村と名の付く者を探していくだけで済む。これはその礼じゃあ。お前も実の親じゃろう? あの女の悲しみと怒りの一部にさせてやろうと思うてなあ」


 軋んでいるのか、割れているのか。どちらかわからない音が、内側から聞こえてくる。離してほしい一心で腕を引っ掻くも酒呑童子は動じず、春水の爪が割れてしまった。頭上からは、だらだらと何かが垂れてくる。

 鉄のにおいがする、どろりとした液体が。


「あの女は、悲しんでくれるじゃろうか。怒ってくれるじゃろうか。ああ、楽しみじゃなあ、楽しみじゃなあ! 悲しみも怒りも、いくらあっても良いからなあ」


 血と手で何も見えないが、うっとりとした熱の籠もった声でわかる。酒呑童子は今、に想いを馳せていることが。まるで、恋でもしているようだ。


「お前もそう思うじゃろう? なあ?」


 揺さぶられ返事を求められるも、春水は何も答えない。

 こんなことになるとは思わなかった。ただ──生きたかっただけなのだ。


「す、ま……な……い……」


 それが、最期の言葉となった。

 誰に向けた言葉なのかは、誰にもわからない。

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