わたしは、貴方を信じている

(……たける様達が戻ってきてくださってよかった)


 外では、尊達が怪我人の手当てなどにあたってくれている。光の柱は咲耶が内側にいなければいけないようで、紫貴に駆け寄ったときに消えてしまったようだ。

 その紫貴は今、布団の上で蹲り、唸り声を上げながら頭を両手で押さえている。

 尊達には紫貴の変化を見られないようにと布をかけ、何とか閨まで連れてこれたはいいものの、状況は芳しくない。

 額からは赤黒い二本の角が生え、紫色の瞳は赤色に染まり妖しく光っている。犬歯や爪も鋭く尖り始め、鬼への変化が進む一方だ。

 そんな彼を、咲耶は部屋の隅で膝を抱えながら見守ることしかできていない。

 以前、紫貴が首の痛みを取ってくれたことを思い出し、何か役に立てるかもしれないと近付いたときだ。

 来るな、と紫貴は腕を乱雑に振りながら声を荒げ、咲耶が近付くことを許してはくれなかった。

 紫貴は、必死に耐えている。それが何かはわからない。痛みなのか、苦しみなのか。はたまた、鬼としての衝動が芽生え始めているのか。

 膝を抱える力を強め、顔を埋める。

 何もできないのだろうか。このまま、苦しむ紫貴を見ていることしかできないのだろうか。

 ──力になりたい。あのとき救ってくれた恩を、返したい。

 いや、恩はそれだけではない。これまでだってどれだけ助けられてきたか。

 ずっと傍で、寄り添ってくれていた。陽葉に責められ、危うく身体を奪われそうになったときも。自責の念に駆られていたときも。

 紫貴だけは、必ず傍にいてくれた。

 そうだ、と顔を上げる。傍にいてくれることが、どれだけ心強かったか。咲耶は、それをよく知っている。

 立ち上がり、今も苦しむ紫貴の傍へ近付いた。来るなと言ったのは、きっと、紫貴の優しさ。自分の身体に起きている異変は、本人が一番わかっている。だからこそ、咲耶を遠ざけたのだろう。

 こんなときでも、紫貴は優しい。でも、今は──その優しさが悲しい。


「来るなと言っただろう! それ以上、俺に近付くな!」


 咲耶に気付いたのか、紫貴は身体を起こし、腕を横に振る。その際、爪が服に当たり、破けてしまった。

 鋭く尖ってしまっているのだ、これは仕方ない。そもそも、近付くなと言われているのに、近付いているのは咲耶だ。服が破れても、怪我の一つや二つ負ったとしても構わないと、特に気にはしていなかった。が、紫貴だけは違ったようだ。顔が青ざめ、愕然としていた。


「大丈夫です、服が破けただけですから」


 怪我はしていないと伝えても、紫貴の耳には届かない。

 自分の爪が起こしてしまったことに動揺し、これから起こりうるかもしれないことを考え、茫然自失しているように見えた。

 咲耶は紫貴へ更に近付くも、首を横に振られる。


「く、来るな! 怪我をしたくないだろう! 俺は、君を傷つけたく、な……ぐっ、うぅ……!」


 ああ、やはり──咲耶は唇を噛み締めた。

 こうしている間にも、呪いによって鬼へと変わりつつある。それなのに、紫貴は変わらない。咲耶の知っている、優しい紫貴のまま。

 頭を押さえる紫貴に手を伸ばし、その身体を抱きしめた。


「何があっても、わたしはお傍にいます」


 酒呑童子が言っていた。紫貴には、随分と前から呪いをかけていたのだと。

 されど、尊達は「体調が優れないようだ」と咄嗟についた咲耶の嘘を信じていた。紫貴が呪いをかけられ、苦しめられていることは知らないのだろう。

 となれば、紫貴は誰にも言わずに、悟られぬように、一人で耐えてきたということに違いない。

 涙が溢れた。呪いに蝕まれ、鬼へと身体が変化していく様子を、一人で抱え込むなど。それは、どれほどの孤独だったことか。


「は、離れろ、今の俺は、何をするか」

「離れません。帝様が、わたしの傍にいてくださったように。わたしも、貴方のお傍にいます。絶対に、お一人にはさせません」


 咲耶は紫貴の身体を抱きしめる力を強くする。


「だから、負けないでください。意識が呑まれそうになっても、ご自身のことを信じられなくなったとしても。わたしは……貴方を、信じています」


 紫貴ならば呪いに打ち勝てると、信じている。

 チリ、と首の後ろが熱くなり、身体があたたかくなった。そのぬくもりは、咲耶の身体を通して紫貴へと伝わっていく。

 もしも、このぬくもりが紫貴に力を与えるのだとしたら。それで、呪いに打ち勝てるのであれば。すべて渡してもいい。

 これまで傍で支えてきてくれた紫貴を、今度は咲耶が傍で支えたい。


「貴方と共に、戦わせてください」


 すると、咲耶の身体が優しく抱きしめられた。


「……あたたかいな」

「帝様も、あたたかいです」

「俺が、怖くはないのか」

「怖くないです。どのようなお姿になろうと、帝様は、帝様ですから」


 トクン、トクン、と規則正しい鼓動が聞こえてくる。それに耳を傾けていたが、少しして咲耶はあることに気付いた。


「あの、痛みや苦しさはありませんか?」

「ん……いつの間にか消えているな」


 身体を離し、紫貴を見る。

 額に生えていた二本の角は綺麗に消えていた。赤く光っていた瞳も、元の紫色へと戻っている。鋭く尖っていた爪も短くなっており、見えてはいないが歯も同様だろう。紫貴も、額に触れたり、爪を眺めたりとしている。

 呪いが消え去ったわけではないだろうが、今日のところは紫貴が打ち勝ったのだ。胸を撫で下ろしていると、身体を引き寄せられ、強く抱きしめられた。


「咲耶、ありがとう」

「い、いえ、わたしは、何も」

「こうして、抱きしめてくれただろう。……ぬくもりが、とても心地良かった」


 紫貴が元に戻った今。よくよく落ち着いて考えてみると、大変なことをしてしまった。

 一人ではないと伝えたかっただけなのだが、無意識に身体が動いていたのだ。紫貴はそれを咎めることなく、何故か今も抱きしめてくれているが、どうすることが正解なのかがわからない。

 どうしよう、どうしようと混乱していると「咲耶」と耳元で名を呼ばれた。息があたり、つい身体が震えてしまう。


「こうしているのもいいが、心地良さが足りない」

「……え?」

「咲耶にも、抱きしめてもらいたい」


 おかしな話だと自分でも思う。つい先程までどうしようと混乱していたはずなのに、なんとなく、紫貴が言っていることが理解できた。

 一度、家へ帰った日。恭一郎と香世子が、抱きしめてくれた。今でも、そのときの二人のぬくもりを覚えている。とても、心地良かったからだ。


(理解できたのは……わたしが、その心地良さを知っているから)


 意を決して「失礼します」と紫貴の背中に手を回す。

 広い背中。分厚く逞しい胸板。こうして抱きしめると、全身で彼を感じる。ぬくもりを感じる。

 つい数分前まで同じように抱きしめ合っていたはずなのに、今は心臓が高鳴り、どこか苦しい。けれど、なんて──。


「うん、心地良いな」

「……はい」


 少しの間だけ、このぬくもりに浸らせてもらおう。咲耶は目を瞑りかけるが、ぐらりと身体が傾いた。なんだなんだと驚いている間に視界がひっくり返り、抱きしめ合ったまま布団へ寝転ぶ。


「すまない、疲れた……」


 言い終えると、紫貴はゆっくりと瞼を閉じていく。


「え、え!?」


 疲れているのはわかっている。すぐにでも寝かせてやりたい。が、この状態で眠る気なのか。声をかけて起こそうとしたが、紫貴からはすうすうと寝息が聞こえてくる。気持ちよさそうに眠っているところに、声をかけて起こすのはさすがに忍びない。

 何とか離れようと身体を動かそうとするも、腕から抜け出せないほどしっかりと抱きしめられている。

 何よりも、咲耶自身も疲れがたまっている。紫貴のぬくもりが眠気を誘い、瞼が重くなってきた。

 婚前前の男女、いや、帝と同じ布団で眠るなどあってはならないことだ。そう思いながらも、下りてくる瞼に逆らえず、咲耶もまた紫貴の腕の中で眠りについた。

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