酒呑童子
──その数十分前。
「なんじゃ、まだなっとらんのか」
つまらん、と紫貴に吐き捨てたのは、宿敵である酒呑童子。
見目は三十歳前後の男性。しかし、これは人間に似て非なるもの。
赤茶色の髪の毛、褐色の肌。ここまでは人間と通ずるが、額から生える赤黒い二本の角、赤く光る瞳、鋭い牙と爪が、その存在を鬼とたらしめる。
上背もあり、六尺(※約181.8cm)をゆうに越える。肉体は鋼でできているのではと思うほどに硬く、紫貴以外の者の剣では傷一つつけられない。
現に、到着したときには、何人もの守護隊員と八十神家の部隊の者が血だらけになって倒れていた。紫貴達が到着するまで堪えてくれていた、とても勇敢な者達。
そんな彼らの身体を、酒呑童子は邪魔だとばかりに蹴り飛ばした。
「……っ、貴様!」
紫貴は即座に剣を抜き飛びかかるも、酒呑童子の左手の爪で止められる。
「怒りたいのは儂じゃあ。昼間のあれはなんじゃあ? 気に入らん、実に気に入らん。儂らは太陽に弱いというのに、弱い者いじめでも始める気か?」
「弱い者いじめだと? どの口が言う!」
「面白いことを言うのお。この口しかあるまいて」
口を大きく開き挑発する酒呑童子に、怒りで気が狂いそうになる。剣を握る手に力を込め爪を弾くと、体勢を整えられる前に距離を詰めて大きく振り上げた。
だが、このままでは痛手は与えられない。権能を使用し、雷を起こす。雷鳴で酒呑童子も次の攻撃が読めただろうが、間髪入れずに剣を振り下ろした。同時に雷が落ち、轟音が辺りに響き渡る。
確実に当たった。が、この攻撃で倒れる相手ではなく。舞い上がった砂埃の中から酒呑童子が飛び出し、猛攻をかけてきた。
剣で弾いては攻撃を仕掛ける。こうした酒呑童子と命のやりとりをしながら、紫貴は奥歯を噛み締めた。
酒呑童子は、人間を甚振り、これでもかと恐怖を与えてから喰うことを好む。中には喰わずに生かす者もいるが、それは恐怖を伝染させるため。そうして、じわじわと人々を苦しませて楽しんでいるのだ。
そんな中でも、恐怖を植え付けられてなお、戦おうと立ち上がる者達がいる。これ以上、酒呑童子や魑魅魍魎の好きにさせてはならないと。
今、足元で倒れている者達がそうだ。紫貴は踏まないようにと意識しているが、酒呑童子はお構いなしに踏みつけ、損壊させている。
報いなければならない。彼らのためにも。
酒呑童子がばらまいた恐怖を、日本から消し去りたい。
なのに、すんでのところで届かない。権能を用いても、まだ。今度こそ、誰も死なせたくないというのに。
振り下ろされる鋭い爪を剣で受け止めた、そのとき。
「──っ、なんだ?」
突如、暗闇を照らした光。日が昇る時間にはまだ早いはず。紫貴と酒呑童子は驚きのあまり戦っていたことを忘れ、ほぼ同時に振り向き──呼吸が、止まりそうになった。
空へ向かって伸びる、一本の光の柱。方角、場所から考えて、八十神家の屋敷だろう。
遠くから見ているだけでも伝わってくるあたたかさ。あの光は、燦々と輝く太陽そのものだ。
そして、紫貴はこの力を知っている。
正宗との手合わせで見せた、咲耶の力と同じだ。
まったく、と思わず笑みが溢れる。閨でいるようにとは言ったものの、咲耶なら「何かできないか」と飛び出してしまうかもしれないとは思っていた。まさか、本当にそうなるとは。
それにしても、あの光の下では、何が起きているのか。見ている分にはとても心地良い光だが。
すると、紫貴の身体も薄らと光に包まれ始めた。不思議と、力が湧いてくる。
「誰じゃ? 誰が太陽の真似事をしておる?」
聞こえてきた言葉に視線を戻すも、酒呑童子は光を眺めたまま。何がおかしいのか、口角を上げ、何百人、何千人と喰い千切ってきた歯を見せている。
「良いなあ。ああ、とても良い。何故、隠しておった? 良いものは共有すべきじゃろうて」
「……共有?」
「そうじゃ。でなければ、先日の
言い終えると、紫貴の剣を弾くように腕を振る。その力は凄まじく、何とか両足で踏ん張るも距離が開いてしまった。
すぐさま剣を構え直し飛びかかるも、紫貴が斬ったのは何もない空中。どこへ行ったのかと見渡せば、屋根伝いで光に向かって走っていた。
「待て! 酒呑童子!」
「くははははっ! 待っていろ、太陽の真似事をする者。すぐに儂が行くからなあ!」
くそ、と舌打ちをすると、紫貴もその後を追った。
* * *
起きているはずなのに、夢でも見ているのだろうか。咲耶は何度も何度も辺りを見渡し、震える声で呟いた。
「夢じゃ、ない」
光に包まれた者達の怪我が、塞がり始めている。
残念ながら、喰い千切られてしまった箇所、失われた命を取り戻すことまではできなかったが。
それでも、少なくとも痛みからは解放される。眠りについた者も、綺麗な状態で家族の元へ帰ることができる。
よかった、と涙がぽたりと落ちた瞬間、何かが落ちたような音と共に地面が大きく揺れた。
「ひ、ひい!」
「なっ、なんでここに!」
顔を青ざめさせ、一点を見つめる人々。咲耶もそちらを振り向くと、赤く光る瞳と目が合った。
ひゅ、と喉が鳴る。咲耶を見て訝しげな表情で首を傾げているが、それどころではなかった。
額に生えた二本の角。赤く光る瞳。あきらかに人間ではない。この者は──。
「前にお前は喰らうたじゃろうが。何故いるんじゃあ?」
魑魅魍魎の首領、酒呑童子。
何故、ここに。言葉を失っていると、酒呑童子は右手を伸ばし光へと触れた。何かする気かと身構えるも、触れた指先の皮膚が一瞬で焼け爛れる。
「くははっ、やはり本物じゃなあ」
鬼は痛みを感じないのだろうか。光から手を離し、骨が見えかけている指先を見て声を出して笑っている。
自分の痛みですらもこのように笑い飛ばせるのであれば、他人の痛みなどわかりはしないだろう。道理で、ここまで痛めつけることも平気なはずだ。虫唾が走る。
それよりも、酒呑童子がここへ来た理由がわからない。紫貴達が向かったはずだが、彼らはどうしたのか。
身体が震える。けれど、訊くのであれば、目の前にいる鬼しかいない。咲耶は声を絞り出した。
「あ、あの、帝様は」
「どうでもいいじゃろうが。それよりもお前じゃあ、お前」
咲耶の質問には答えず、においを嗅ぎ出す。ここには戦える者はいないため、下手に動くことはできない。黙って様子を窺っていると、満足したのか、右手で顎に触れ口角を上げた。
「儂が喰らうた巫とまったく同じじゃなあ。あの状態からよう息を吹き返したものじゃあ。しかし、こんな芸当までできるようになるとはなあ」
「……陽葉様はお亡くなりになりました。わたしは、藤村咲耶です」
「藤村?
すう、と目が細められ、下卑た笑みが向けられると、耳元で囁くような優しい声で呟いた。
「さては、お前。いや、お前達は、畜生腹から生まれた子らか」
「……っ」
咲耶の反応に、酒呑童子の赤く光る瞳に熱が込められる。
「なるほどなあ。あれがいなくなり、今度はお前がいいように利用されておるのか。可哀想に。儂なら、お前をこのように扱わんぞ?」
驚くことに、何一つ響かなかった。むしろ、笑ってしまいそうになったほど。
これまでも、このように騙ってきたのだろう。酒呑童子は「こういう言葉をかけておけばいい」とただ口にしているだけ。相手のことは何もわかっていない。だから、どの言葉も響かない。的外れもいいところ。
ぐ、と拳を握り、咲耶は立ち上がった。自分の言葉が響いていると思い込んでいるこの鬼に、一言いわなければ気が済まない。
「利用? 可哀想? いいえ、そんなことはありません。わたしがこの道を選んだのです。何も知らない貴方に、知ったような口を利かれたくない」
「お前、儂を侮辱するのか?」
「侮辱だと? 先に咲耶を侮辱したのは貴様だ」
青筋を立てている酒呑童子の背後から聞こえてきたのは、紫貴の声。誰が聞いてもわかるほど、怒りを滲ませている。
「何も知らない奴が咲耶の気持ちを語るなど、彼女への侮辱に他ならないと知れ」
風を切る音と同時に、酒呑童子が大きく跳び上がり、紫貴から距離を取った。どうやら、紫貴が持っていた剣で酒呑童子に斬りかかったようだ。
「はあ……散々じゃあ。興も冷めたわ。つまらん、ああつまらん!」
つまらんつまらん、と幼子のように地団駄を踏む。
「まだなっとらんお前! 太陽の真似事をするお前! つまらんつまらんつまらん!」
紫貴、咲耶、と順番で指差したあと、動きを止めた。ところが、それはほんの束の間。目で追えないほどの速さで紫貴に近付き、彼の顔を掴んだ。
かと言って、何かをするような素振りはなく。すぐにその手は離され、紫貴は地面に膝をつくと四つん這いの姿勢を取った。
「帝様!」
「くっ、くるな……!」
地面の砂を握り締め、もう片方の手で顔面を押さえている。
咲耶からは見えなかったが、やはり顔を掴まれたときに酒呑童子が何かをしたのかもしれない。光の柱から出て、紫貴に駆け寄る。
──そこで、信じられないものを目にした。
額に生えた二本の角。赤く光る瞳。その姿はまるで、酒呑童子と同じ。
動揺を隠せずにいると、頭上から酒呑童子の楽しそうな声が聞こえてきた。
「随分と前から、そいつには呪いをかけていてなあ。だがしかし、一向に鬼にならん。つまらんし、腹いせに強めてやったわ」
「そんな……!」
「今日はこんなところで帰るかあ。あ、そうじゃそうじゃ」
咲耶に視線を合わせるようにして、酒呑童子がしゃがみ込む。髪を一房手に取られたかと思うと、そっと口付けされた。
「太陽は隠れるべきじゃあ。安心せい、儂がその舞台を整えてやろうて」
ケラケラと笑いながら、酒呑童子は闇夜に姿を消した。
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