第二章

ただいま

 身体が軋む。頭の中で大きな音がする。押し寄せる激痛に脂汗が滲み、喉の奥からかすかに呻き声が漏れた。

 自分のねやに連れてくるのは、早計だったかもしれない。だが、自身の出自を知り、その戸惑いの中で陽葉の怨嗟えんさの声を聞いた彼女の憔悴しきった姿を見て、放っておくことができなかった。

 そんな彼女は今、すうすうと安らかな寝息を立てて眠っている。陽葉のこともあり、よく眠れるようにと暗示をかけたのが功を奏したようだ。

 いつものように奥歯を噛み締め、声を抑えながら痛みが過ぎ去るのをひたすら待つ。

 これだけは、誰にも知られてはならない。誰にも見られてはならない。


(あの鬼め。厄介な呪いをかけてくれたものだ)


 激痛を伴いながら、額を割って出てきた二本の赤黒い異物。紫貴は胸中で悪態を吐きながら、を伏せた。



 * * *



 ──陽葉の遺体は、朝一番に火葬された。棺の中を埋め尽くすほどの花と、紫貴からのこれまでの労いと感謝の言葉と共に。

 その後、陽葉が亡くなったことが国民に報され、日本中が悲しみに包まれた。


「陽葉様は、国民の方々に慕われていたのですね」

「慕われていたというよりは、希望に近かったのかもしれない」


 紫貴の言葉に、咲耶は「そうですね」と小さく頷いた。

 百年ぶりに生まれた巫。何かが変わる予兆なのではと、誰しもが希望を抱くだろう。


「咲耶、君は一度帰るといい」

「え? でも」

「恭一郎殿と香世子殿に、伝えたいことがあるだろう。明日の朝、迎えに行く」


 いいのだろうかと、一抹の不安を覚えた。

 何故ならば、巫として生きていくのであれば、これまでのように生きることはできない。あの家に戻ることも二度とないと思っていたからだ。

 それとも、一度、というのは、これが恭一郎と香世子と過ごす最後の時間だということだろうか。もしそうだとすれば、帰らせてもらえるのは嬉しいしありがたい。咲耶の決意を恭一郎と香世子にも聞いてもらいたい。そして、願わくば──二人にも、背中を押してほしい。

 でも、と咲耶は視線を足元へ向ける。巫として生きると決めたというのに、喜んで帰ってもいいものなのだろうかと悩んでいると、紫貴が微かに笑い声を漏らした。顔を上げると、彼は困ったような笑みを浮かべている。


「何を悩んでいるのかわからないな。咲耶の帰るべき家は、恭一郎殿と香世子殿がいるあの家ではないのか?」

「で、ですが、巫として生きるのなら、これまでの生活には戻れませんよね?」

「それはそうだが、親や家を捨てる必要がどこにある。君は、藤村咲耶だろう」


 頭の中で、何かがはじける。同時に、なんて自分は馬鹿なのだろう、と恥ずかしくなった。

 昨晩、春水から名を付けてやると言われ、憤りを覚えたというのに。咲耶自身が、春水と似たようなことをしようとしていた。

 巫として生きると決意したことで、過去と決別しなければならないと。

 あのときの春水に対して、紫貴が言ってくれたことを思い出す。


『彼女は、藤村咲耶です』


 とても大切なことなのに、何故忘れてしまっていたのだろうか。

 布団に入ったあとに話していたときもそうだった。紫貴だけはずっと、咲耶のことを「藤村咲耶」として見て、接してくれていたのに。

 こうして、巫として生きていく決意を固めた今でも、それは変わらない。


「……帰っても、いいですか? お父様とお母様に話したいことが、たくさんあります」

「ああ、今日はゆっくり過ごすといい。明日の朝、迎えに行く」


 それはさすがに畏れ多いと断ったが、恭一郎と香世子に挨拶をしておきたいと紫貴も譲らず。結局、明日の朝に紫貴が迎えに来てくれることになった。

 更に「念のため」と、咲耶が家へ帰るまでの護衛として尊を呼んだ。厚い雲に覆われているとはいえ、今は明るい時間帯。一人で帰れると言っても、またしても紫貴は譲らず。尊も「帝様のご命令とあらば、どこへでも行きます。暇だし」と笑顔を見せる。

 着の身着のまま、寝間着姿でここへ来たため、荷物は特にない。帰る準備は既にできているようなものなので、すぐに尊と共に家まで帰ることになった。

 紫貴に見送られ、二人は歩き出す。八十神家、神森家の敷地を出てすぐ、尊は詰襟制服を脱ぎ、咲耶へかけた。


「着てるのって、寝間着だよね。それ着てて」

「は、はい。ありがとうございます」

「まあ、その服も目立っちゃうけど。ないよりはいいでしょ」


 確かに、周りからの視線が咲耶と尊に集中している。八十神家の人だ、あの女性は誰なのか、という声も聞こえてくる。

 早く家に着いてほしいと思っていると、咲耶のすぐ隣からも視線を感じた。横目で確認すると、尊が頭の天辺から足の爪先まで、穴が開くのではないかと思うほどに咲耶を見ていた。


「どうかされましたか?」

「あっ、ごめん。俺達はまだ話を聞いてないからわかってないんだけど、陽葉様と双子なんだよね? 俺、双子って初めてだからさ。こんなにも似るんだなあって思って」


 髪型とか違うくらいなのかな、と首を傾げる尊。

 尊が珍しく思う気持ちはわかる。咲耶も双子を見かけたことはない。風習に倣っているのだろう。実際、咲耶も間引かれるはずだった。

 陽葉と違うのは、尊の言うとおり髪型と、話し方くらいだろうか。それ以外は間違い探しが困難なほど瓜二つ。

 けれど、誰も気付いていなかった。咲耶と紫貴が出会うまでは。

 神森家に近付かせまいとしていた恭一郎達の努力。陽葉自身が面で顔を隠し、誰にもその素顔を見せていなかったことが重なった結果だ。──それがいいか悪いかは、わからないが。

 だから、今こうして咲耶が歩いていても、八十神家の者と歩いている女性という認識しかされていない。


「それにしても、昨日は大変だったなあ。結界を張ったり、倒しに行ったり」

「魑魅魍魎、ですか?」

「そう! 巫を喰い殺してやったっていうので勢いがついたのもあっただろうけどね。陽葉様が魔性に堕ち気味だから、誘い水みたいになっちゃって」


 結界を張っても寄ってきてさあ、と尊は深い溜息を吐いた。

 閨へ向かう前、紫貴は陽葉の遺体に結界を張るよう指示を出していたのは覚えている。魑魅魍魎どもが好むからと。あれは、陽葉が魔性に堕ちようとしていることに気付いていたからだったのか。

 では、いつから陽葉はそのようになってしまったのかと考えたとき。ぞくりと悪寒が走る。

 息が苦しくなるほどの暗く冷たい闇。怨嗟の念。血の涙。

 もしかすると、きっかけは──。


「おーい、着いたよ。どうしたの?」


 尊の声にびくりと肩を震わせる。考えごとをしている間に家へ着いたようだ。見慣れた外観に、そっと胸を撫で下ろす。


「すみません、少し考えごとをしていました。送っていただいて、ありがとうございます」

「どういたしまして。あ、服もらうね」


 ゆっくり休んでと言い残し、尊は帰って行った。

 一日ぶりの我が家。咲耶は戸に手をかけ、カラカラ、と音を立てて開いた。

 しんと静まりかえる廊下。ただいま、とその一言を言えばいいだけなのだが、何故か緊

張してしまう。すると、居間から香世子が顔を出した。咲耶だとわかると、みるみるその目を開いていく。


「あ……た、ただいま、帰りま」

「咲耶! 恭一郎さん、咲耶が、咲耶が帰ってきましたよ!」


 香世子の声に恭一郎も顔を出し、二人が居間から飛び出してきた。初めて見る二人の様子に驚いて固まっていると、一足早くやってきた恭一郎に強く抱きしめられる。


「……っ、おかえり、咲耶」


 後からやってきた香世子にも抱きしめられ、咲耶は二人の間に顔を埋めた。

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